できる限りやさしくしようと思います。私のふる郷であなたにお目にかかれるならばこのように嬉しいことはありません。私は性と信仰とのことについてもあなたに聞いていただきたいことがありますけれど、それは帰郷してからの詳しき手紙に譲ります。私の心ばかりの送り物を受け取り下さいまし。
[#地から2字上げ](久保正夫氏宛 六月二日。別府温泉より)

   十字架についての思索

 あなたの二つのお手紙と一つの雑誌とは私の手に届きました。私はこの手紙を書きはじめる前に日のあたる縁端の椅子にすわってあなたのなつかしき「花と老いたる母」を読みました。愛とかなしみと、そして遠い心のねがいが運命を知ることによって生まれる純な知恵とが私の胸にひびきました。あなたのものにはツルゲーネフやマーテルリンクなどに見らるるような、知恵と運命とのかなしい遠いこころもちがいつもひそんでいるように感ぜられます。あなたのものを見るまなこは早くから遠くに達することができるようになったものですね。あなたのものにはさながら老年期のような「見渡す力」が見えます。そしてあなたの趣味やあこがれは世のつねのものよりもみなひときわ奥の方へと深まっているようです。私はあの雑誌を見渡してあなたのものがはるかに学生ばなれしていることを感じました。ほんとにあなたなどは衣食の心づかいさえなくば学校へ行く必要のないまでにすすんでいらっしゃると思います。その表現の仕方にももはや一つのスタイルさえできてるように見えます。私はあなたの遠い御成長を祈っています。
 読者はあなたの作物によって、運ばれて行く事件の進行ではなく、あなたのゲミュートに直接に感じて動かされます。私はあなたが現実をばどのような仕方に取り扱われるようになるかは未来のこととして、興味をもって注意していますけれど、おそらくは現実はそれ自らではあなたの興味をつなぐことはあるまいと思われます。そしていつも何かのイデアルがあなたを創作に駆るの機となるのではないかと思われます。私などはいつも空想や理想で生きています。遠い山脈と白い雲とにあこがれる心なくしてどうして生きるよすががありましょう。私は心ひかるるものをいつも生活のほんとの内容として生きています。私が現実を凝視するのはそれによって現実をはなれて私の標的を純粋にし、日々のこまかなことにまでアイデアリズムを透徹したいためでございます
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