ありません。私はもっとしっかりした態度でいつかクリスチァンになるかもしれません。これらのことはかく短く簡単には述べられません。あなたは十分には理解できますまいけれど、でも私の心持ちだけは以上の説明でほぼ推察下さいますことと存じます。気分の宗教ではとても病の癒しを神のみに求めたり、他人の幸福の守りを神に任せて安んじているような強い信仰はできません。そして私はそのような信仰を求めます。
性の問題は正夫さんへの手紙に書いたように、エゴイスチッシュな動機をはなれて、女性を愛し、しかもそれが性の要求の飽和を与え、しかも天の使のような生活を傷つけないような女性の愛し方はあるまいか、と考え悩んでいるのです。そしてそれは「あらねばならぬ」ことでありながら、よほど困難なように見えます。私は人間に性の要求のあるのは、根本的なよほど深い根のあるものと思います。そしてその性の要求をよしと見るのは無理ではないようです。しかもこれはじっさいエゴイズムの最大の動機となります。私は肉体の交わりに伴なう恥ずべき、きらうべきエゴイスチッシュな意識を痛感します。しかしこの交わりなくして、性の要求を飽和せしむるにはいかにすべきか、フランシスとクララとの交わりは、私に暗示を与えますけれど、それは師として、友としての感情にて、まだ性の要求の飽和には遠いもののようです。私はアダムとエバとのごとく、夫婦しての交わりにてのピュアな、天使的な、スイートな境地にあこがれます。それで私は、この頃は「聖なる恋」というあこがれを持ち始めました。神の前にての、エゴイスチッシュならぬ、天使としてゲミュートを損ぜぬ、けれど性の要求を飽和させる恋というものを描かずにはいられません。もし私たちの魂が祝福されたる高き神来の純化に達するならば、肉体の交わりなくとも、性の要求の飽和に達することができるのではありますまいか。
私は失恋して以来、いちずに女と恋とをなやみ[#「なやみ」に傍点]してきました。けれどそれは私の一つの反抗的なファラシーであって、ハイウェーではなかったかもしれません。私は遠い深い性の要求を魂の底に感じます。神さまがもし私に、神の※[#「耒+禺」、第3水準1−90−38]《そ》わせ給う女を送り給うならば、私は恋をしてはならないと思い決めまいと考え出しました。けれど私の願うごとき恋が、いつ現実に得られるか、私には何の手が
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