がましき心を起こしてはならないと思いました。彼女は春の夕、合歓《ねむ》の匂《にお》いに、恋しいような、懐かしいような心のあこがれをそそられて、その樹《き》を抱いて接吻し、香を嗅ぎ、泣いたというようなことも書いてありました。また、クリスマスに先生から贈られたカナリヤに自分の掌から桜の実を食わせ、その小さな、柔らかなからだに触れて愛の感動をおぼえたとも書いてありました。不幸な彼女は人生の悲哀も、愛のうれしさも、神の恵みも、その心持ちがしみじみと会得され、晩年には聖書をそばからはなさず、ブルックス僧正から愛と恵みの教えを受くることを、何より楽しみといたしました。私は、光と音とを知らない彼女が、海辺をさまようては貝殻を拾うたり、岩に腰をおろして、海の博い心や、太陽の思いを想像したりして、時のたつのを忘れたという語を読んで、深く感動いたしました。神様はさながらあわれなる彼女の一生を、やさしき悲しみもて守り給うように見えます。そしてこの書物を読んで私の心に残ったものは、やはり人生の深い悲哀と、愛の不思議なうれしさとでした。遠い遠い平安と調和とを信じる心地が、私の胸の奥深く起こって参りました。
 この間の手紙に結婚のことを書きましたけれど、あれはそうも思われると申しただけで、そう決めているのではありませんし、また他に考えねばならないことのいくらもあることも、承知いたしています。ただ私はいかにして純なる心で女性を愛すべきかという現実の煩悶《はんもん》を、常に持っています。性の問題は私には実に困難な問題に感ぜられます。そしてこれがために少なからず心の平安を乱されます。
 私は尾道の姉の来るか来ないか決まるまで、心を静かにして苦痛を忍耐し、妹を慈しみつつ、養生いたしますから安心して下さい。今日は久しぶりに太陽の姿を仰ぎました。二、三日来の風邪心地も去って、少しはすがすがしくなりました。私は持病が二つもあって、何かにつけてたいそう都合の悪い生き方をしなくてはならない身ですけれど、それでも神様は私を何かのお役に立てて下さることと信じます。なにとぞあなたはいつまでも私を憐れみ愛して助けて下さいまし。
 弱きもの、貧しきもの、愚かなものを虐《しいた》ぐる、あるいはそしらぬ顔の傲慢《ごうまん》ほど憎むべきものがありましょうか。私は人生の悲哀と愛の運命と、これらのものとはなれて生きて行く気はいたし
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