ことができるようになりました。私はそれを恵みと思っています。私はこの頃は神に対し、人に対して感謝することを知ってきました。
 私ごときものがこうして何不自由なく、(私はそれを享ける値はない気がします。ましてそれを要求する権利などはどこにもない気がします)暮らしてゆくことができることを感謝せずにはいられません。私は父の恵みと、友の好意と私の著書をよんでくれる人の報謝とで暮らしています。「われらの日々の糧を今日もまた与えたまえ」というような感じがしています。
 私はいつも寝てますけれども、常に看護してくれる妻と、忠実なる助手とまた愛らしい男の子とまたその子供を非常に可愛がってくれる子守とに囲まれ、書物や絵や音楽が与えられ、晴れた日には「海の幸」を思わせるように港に賑わう船を数え、また窓の下の少しばかりの草木や、鳥やを楽しむこともゆるされています。私の心が貧しく潤うているならば、私の日々新しい興味で生きてゆく途《みち》は残っていると思います。心静かに暮らしていますからよろこんで下さい。家内と子供とは実は赤痢だったのですが、幸いに全快しましたから安心して下さい。
 クリスマスには地三におもちゃを送って下さって子供も親もたいへんよろこびました。よく心にかけて下さいました。お礼申し上げます。正月はひとりの訪問者もなく淋しくしかし平和に迎えました。二日の午後あまり天気が美しかったので車に乗って明石中の町や川や公園などを見て廻りました。いろいろなものが私には物珍らしくいきいきと眼にうつりました。ことに道で会った朝鮮の少女の正月の晴着を着たらしい、愛らしい服装が今でも眼に残っています。赤や青の単純な、日本の巫女《みこ》の着るような服を着て、小さな靴をはいたのが母親らしいのと楽しそうに町を歩いていました。あなたの「ベートーヴェンの生涯」を近いうち読みたいと思っています。「イタリア紀行」も書物になるのですか。ぜひ読みたく思います。私は「俊寛」をとうとう書き上げました。これはしかし三年前の着想なので今では少し私とぴったりしない気がします。早くほかのものにかかりたく思います。おひまの時に遊びにいらっして下さい。幸福に仕事に実り多く暮らして下さい。[#地から2字上げ](久保正夫氏宛 一月五日。明石より)

   恵みに向かって高められつつ

「ベートーヴェンの一生」をありがとうございました。こ
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