純な趣味的要素(妙な言葉ですけれど)に眼がつくほど、新しい生活に対して二の足を踏みます。真の祈りの心持ちは隙間《すきま》のない実践的意志から必然に分泌せられるべきものなのに、私たちには、その実践的意志が、まじめになっていません。したがって真実に祈ったことはありません。それゆえに神の姿は私たちの眼には封じられています。
 昨日も天香師から宗教は趣味ではないといって、宗教的空気を享楽し、あるいは眺め、究《きわ》めるような態度を難ぜられるのを聞いている時に、私ははげしい叱責を受けているごとくに苦痛を感じました。そしてただ畏れ入って退きました。
 謙さんがはるばる訪ねて来て下さって十日間一緒に暮らす間にも、話題はいつもその愛の問題と私たちの態度の気まぐれを省みて、互いに恥じるところに落ちて来ました。時としては二人とも自らの「光の子」と認めて遠い完成の希みに微笑したり、また時としては救われがたきいたずらもののごとくにのみ思われて、悲しくなりました。私は十日の間にも、時々私のわがままから重たいムードになって謙さんも、渋い顔を見せたこともあり、叔父《おじ》、叔母《おば》の見物の案内や、またある先輩の用事の手伝いなどして、謙さんのもてなしができなかったこともあり、そのようにして謙さんを七条に送った時には、すまないとばかり思っていましたのに、東京からの謙さんのお手紙を見れば、私の想像しないような、感謝の情にみちているので、もったいないように感じました。ことに天香さんは謙さんに深い強い印象を与えたらしく、内山君の手紙とともに昨日天香さんは私に謙さんの手紙や歌を見せて悦び、たのもしく思ってかつ感謝して栄えを神様に帰していられました。近々上京せられる時には謙さんや内山君にも会って話したいといっていられました。
 この前のあなたのお手紙にあらわれていたあなたの心の態度もうなずかれます。あなたは今は天香さんにお会いなさらなくてもよろしかろうと思われます。もっと先で機縁の熟した時に、会いたい気の起こった時にお会いなされませ。
 私たちを徳へと駆る原動の力は、私たちの心の内に働く、罪や、刑罰や、羞恥《しゅうち》や、後悔や、すべて道徳的の苦痛の感じ――それは享楽と観照のできない直接な意識――です。そのほかにいかほど博く知ったり集めたり研《きわ》めたりしても、推進する力にはならないと思います。
 あな
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