ものであることを知ってきましたから、むしろそのたたかいに同情いたします。佐野文夫君などはそのたたかいのために非常に悩んでいました。そして私の知ってる限りではそのたたかいにまだ成功してはいませんでした。私はただその苦闘を祈りによって、たえず続けてゆける人を尊敬いたします。私などがいうべき限りではありませんけれど、あなたの認められるあなた御自身の欠点は私もたしかに認めています。
さまざまな尊き内容を持つ言葉や文字が、十分に実践的な意志を伴なわずに表現せられるときには、それのエフェクトはインテンシチーの足りないものとなって受け取られます。読む人は軽く、受け流してしまいます。博識の人たちに多い欠点と思われます。上田、森、姉崎博士たちからは、私たちの生命、こころ、の糧《かて》は与えられぬように思います。ほんとうは、聖者たち、あなたの好んで訳さるるフランシスのごとき実行家からばかりまことの深い感動は与えられますね。そしてフランシスのごときものを物語的な心持ちで読むほどの冒涜《ぼうとく》は少ないと思います。一杯の水を隣人に乞う心と、カフェで紅茶を飲む心持ちとはまるで似ていないのに、私たちは紅茶の後でフランシスを語りつつ弄びます。そのようなところに私たちの一番大きな、直接な間違いがあるようですね。キリストや、釈迦や、親鸞聖人などの托鉢の生活を思い、またその生活をそのままに、今なお乞食のごとくに暮らしている天香師などのそばに行くときに、私はいつもはげしく私の仮虚の愛を指示されて苦しみます。しかも私はまだ天香師をそのままにナハフォルゲンできない心のありさまにありながら、私のすぐそばにかかる愛と犠牲の行者《ぎょうじゃ》を持っているのはどのように不安だか知れません。
私は少なくとも天香師の前では愛を口にすることだけはさし控えます。「私は少しも愛してはいません」というほうがどれほど安らかか知れません。そして世のなかの、ことに文壇の愛の論者たちが皮肉にさえ感じられます。私は天香師のそばをしばしば逃げ出したくなります。しかもその真実な性格にひきつけられてそれもできません。私は、謙さんにも話したことですが、今心の生活が行きつまっています。どちらにも進まれないような境涯《きょうがい》に座して苦しんでいます。自分のなかのむなしいものや、甘えるものや、また自分の発心《ほっしん》や動機などに根在する不
前へ
次へ
全131ページ中82ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング