よりもキリストの「マルタよ、マルタよ、なんじ思い煩いて労れたり、されど無くてかなわぬものはただ一つなり」といわれた、その一つのものを得るために一心になるべきだと思います。それがやがて他人を潤おす本になるのだと思われます。私は神を求めてまだ神にあいません。いわんやパンを神にデペンドする強い信仰はありません。だから今はほんとの意味の出家はできません。しかし私の目ざしている境地はフランシスのような生活を実践することです。私はかつて恋を求めている時には、身も世も忘れて熱心でした。そして神を求める今、その熱心が足りないでどうしましょう。カルチュアやマンナーや骨肉の姑息《こそく》な愛(私は父母を愛するのに何の自信もありません)は第二義以下のことです。まず「無くてかなわぬもの」を握らねばなりません。その時私はすべてのものを愛する立場を得るのでしょう。釈迦、キリスト、日蓮などの出家は、両親を愛せぬからではなく、もっと深い愛、実力のある救済を求めたからでありましょう。私の愛は、他人の運命を動かす力なき愛です。親鸞の「心のままに助け取ることありがたき」聖道の愛にすぎません。私は浄土の愛がほしいです。私はコンセントレーションをせねばなりません。「愛と認識との出発」以来、私はあまり私の熱注的な性格を制して、多くの方向に心を向け過ぎました。かくして得られたる「静けさ」のなかには、怠慢と姑息とが芽を出しかけました。私は多くの data を隈なくならべて、それを統一することは単純化の道ではないと思い出しました。単純化は一つのエッセンス、精、法則の柱を握って、他のものをそれに依属せしむることだと思います。根本の深いものを一つつかまえねばなりません。そして私はそれを愛と運命との問題だと思います。私は文化の吸収に費やす力を少し惜しみましょう。生の歓楽を捨てて忍耐しましょう。(たとえば女の肉、快適な衣食住など)そして力を集めて私の問題に向かいましょう。それが私のアイゲントリッヒな性格なのですから。あきらめればあきらめられるものはみな捨てて、あきらめるにも、あきらめられぬものに集注しましょう。歓楽はあきらめられます。名誉も捨てられます。愛は捨てられません。今の文壇から誉を除けば、いかなる動機が残りましょうか、深い思想と濡れ輝いた個性が出ないのはもっともに思われます。弥陀《みだ》の誓願の一つに「この本願かな
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