受の心持ちをあきらめ[#「あきらめ」に傍点]とはいいたくありません。「善きもの」に任せるのはあきらめではありますまい。親鸞聖人の「任受はいかにあせっても、もがいて逃げることのできない仏の慈悲に」任せたのです。彼にあっては打ち克ちがたき運命は彼によきものでした。そこに彼の宗教的意識が感謝に満つることができました。またその任受の生活はさまざまな、人間の積極的な努力をも、また苦痛や悲哀をも、ゆたかに含みうると思います。私は深い豊富な、そして確かな任受の心持ちの、完成した世界観を実感として持つことのできることを理想としています。昔から聖者と呼ばるるほどの人は、そこまで達しられたのではありますまいか。私たちもけっして力を落としますまい。
私は、とはいえ、毎日心のなかに何の幸福もなく、味気ない苦しい暮らし方をいたしているのですよ、私は、どうしても私の家のなかに安住することができません。正夫さんにも申したことですが私はしみじみと出家のねがいを感じます。愛の生活と家族関係とは両立できないと思います。このように抽象的にいってはわかりますまいが、私は親に対する子の悲哀を痛切に感じます。私は愛に徹するためにも親とも隣人の関係に立たねばならないと思います。私などはそのほうがかえって親を愛しよいのです。私はそれを断行せねば、とても親を愛するようにはなれそうにありません。私は隣人には親切、親にはあさましいほど不幸です。私は自分で苦しくてならないのですけれど、そうなるわけがあるのです。(私は、そのことを私のエッセイに詳しく書きました)私は一度出家したならば、きっと、親にもかえって孝行のできる時が来ると思うのです。それについて私はこの頃一つ深く感じたことがあります。それはキリスト教とパンの問題です。キリストの十字架を負えば私有財産も家庭生活もできないことになりますが、しからばいかにしてもパンを得たらばいいのでしょうか。私は考えてみるにキリストの考えはパンを神にデペンドすることにあったのだと思われます。「なんじら何を着、何を食わんとて思い煩うなかれ、ただ神の道を求めよ、さらばこれらのものはその上に加えられむ、けだしは、天に在《いま》す父は、これらのもののなんじらに無くてかのうまじきことを知り給えばなり」「なんじら明日のことを思い煩うなかれ」とあり、また「主の祈り」のなかにも「われらの日用の糧《かて
前へ
次へ
全131ページ中61ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング