ださい。わしはあなたを責《せ》める気は少しもない。あなたはあまりに痛ましい。困苦寂寥《こんくせきりょう》の歳月《さいげつ》があなたの忍耐《にんたい》力を奪ってしまったのだ。あなたは心の平衡《へいこう》を支える勇気を砕《くだ》かれてしまったのだ。だれがわれわれのような境遇にあって自暴《やけ》にならないでいられよう。わしはわしの心が砂のように崩壊《ほうかい》するのを防ぐために必死の力をつくしている。しかも踏《ふ》みしめても、踏みしめても、足下の大地のずり[#「ずり」に傍点]落ちるような心を制することができないのだ。
成経 わしは昨日《きのう》巌《いわ》の上に立って、一そうの船も見えない、荒れ狂う海を見ていたとき、強い強い誘惑《ゆうわく》を感じた。わしは足がすべって前にのめりそうな気がした。しかもわしはそれにほとんど抵抗する気力を欠いていた。もしあの時康頼殿が、とぼとぼと波打ちぎわを歩いて、首をたれて考えに沈みながら、わしのほうへ、おそらくわしのいることも知らずに、近づいてこられるのを見なかったら、わしはどうなっていたかわからない。その姿《すがた》はわしに何とも言えない、愛と憐憫《れんびん》の情を起こさせた。同悲《どうひ》の情をわきたたせた。わしは涙がこぼれた。わしはこのさびしき友をなぐさめるためだけにでも、生きていたいと思って、走りだした。
康頼 (涙ぐむ)わしはあなたの姿に気がついた時ふるえた。わしはあなたの心をすぐ知った。今あなたがいかなる危険な状態にいるかを直覚した。そしてあなたを抱《だ》きとめに走ろうとする刹那《せつな》、わしはあなたが両手を広げて涙をいっぱい目にためて、わしのほうに走ってくるのを見た。
成経 わしらは抱き合って泣いたのだ。
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間。
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俊寛 わしはさびしい気がしてならない。昨夜《ゆうべ》から変に心細い気がしてならない。こんな気のすることはこの島に来てからはじめてだ。不幸が近づいてくるような……
成経 白帆《しらほ》だ! (急に元気づく)あの姿《すがた》がどんなに希望をわしに与えてくれることか。
康頼 (沖《おき》を眺める)この島に来るのなら! (考える)来るかもしれないぞ。わしは昨夜から不思議に胸騒《むなさわ》ぎがしていたのだ。何か大きな幸福が来るような……
俊寛 (顔色が悪くなる)どうしたのだ。あの白帆を見ると寒い影がサッとわしの心にさしてくるのは!
成経 幸福の船よ! いやいや。わが心よ、軽はずみにおどるな。あとであまりにさびしいから。わしは幾百度《いくひゃくたび》裏切られたろう。しかも今度は、今度はと思って希望をかけないではいられない。きょうもまた無慈悲《むじひ》に方角《ほうがく》を変えてしまうのかもしれない。そして結果は船の姿を見なかった前よりも、悪くなるのかもしれない。あの気ぬけのした、いまいましい、なぶられたような、不幸な心に!
康頼 (船より目を放たず)わしの愚《おろ》かな妄想《もうそう》だろうか。いや、どうもいつもとは違うようだ。わしに与える気もちがちがっている。いつもは気まぐれな鴎《かもめ》のどちらに飛ぶか見当のつかないような、あてにならない気がするのに、きょうは信ずべきものの渡来を待つような気がする。あの船は決心したようにまっすぐにこの島に向かって来るように見える。
成経 わしもどうもそんな気がする。初めてあの船の姿を見た時から、待っていたものが、ついに来たような気がしてならない。
康頼 わしはまだ童子であったとき、兄の花嫁《はなよめ》の輿《こし》を迎えに行ったことがあった。国境《くにざかい》でわしたちは長く待った。輿は数百の燈火《ともしび》に守られて列をつくってやって来た。あれでもない、これでもない。けれどほんとうに花嫁の輿が来たときに、わしらは皆申し合わせたようにそれを直覚した。わしの今の心持ちはそれに似ている。
俊寛 (傍白)ほんとうにわしはどうしたのだ。棺《ひつぎ》を迎えるような気がするのは!
成経 もう半時《はんとき》すればはっきり見込みがつく。この島にまっすぐに来るとしても、到着するまでには二、三時はかかるだろうけれど。
康頼 恐ろしい半時だ。わしはじっとして船を見ているのに堪《た》えられない。わしは熊野権現《くまのごんげん》の前にひざまずいて一心不乱に祈ろう。祈りの力で船をこの島に引き寄せよう。神々よ。あの船をこの島に送りたまえ。神風《かみかぜ》を起こしてあの帆《ほ》をふくらせ、水夫《かこ》の腕《うで》の力を二倍にし、鳥のごとくにすみやかにこの岸に着かしめたまえ。(鳥居《とりい》のほうに走り出そうとする)
俊寛 (康頼の袖《そで》を握《にぎ》る)待ってください。ごしょうだからわしのそばを離れずにいてください。わしはさびしくてたまらない。さびしいさびしい考えがさっきからわしの心に起こってきた。
康頼 あなたはどうしたのです。あなたの顔の色は! この希望に痙攣《けいれん》するような瞬間に、あなたはなぜそのようなさびしい顔をしているのです。
成経 (傍白)まるで喪《も》のような顔つきをしている。
俊寛 わしを捨ててくれな。きらってくれな。
康頼 あなたは何を言うのです。今、幸福が、信じられないほどな幸福がわたしたちに向かって近づきつつある。見なさい。あの穏《おだ》やかな[#「穏《おだ》やかな」は底本では「隠《おだ》やかな」]春の海を、いっぱい日光を浴びて、金色《こんじき》に輝いて帆走《ほばし》って来る船を! あの姿《すがた》があなたをおどりあがらせないのは不思議というほかはない。
俊寛 わしは不安で不安でたまらない。
康頼 大きな幸福が来る時には、そしてその幸福がまだ確定しない時には人間は不安を感ずるものだ。その不安ならわしも同じことだ。あまり幸福が大きいから。わしといっしょに行きましょう。いっしょに祈りましょう。
俊寛 (哀願《あいがん》にみちたる調子にて)誓《ちか》ってくれ。愛を誓ってくれ。
成経 (和睦《わぼく》と愛憐《あいれん》の表情をもって)あゝ、あなたはそれを気にしているのか。人間は幸福が来る時には人とやわらぎたくなるものだ。俊寛殿。安心なされ。さっきのことなら、わしはすっかり忘れている。わしに来かかっている幸福はわしのすべての憎悪《ぞうお》をもみ消してしまった。わしは心からあなたに和睦の手を差しのべよう。
俊寛 わしはまだまださびしいことが考えられる。あなたがたがわしを捨ててしまいはせぬかというような気がしてならない。わしを振り捨てて、二人だけ都《みやこ》へ帰ってしまいはしまいかというような気がしきりにする。
康頼 あなたはどうしたのです。あなたは凶事《きょうじ》を自分で描《えが》いてはまねき寄せようとするように見える。凶事についてのあなたの異常な想像力にわしはまったく驚いてしまう。それがあなたの不幸の原因だ。わしが一度でもあなたを捨てると言いましたか。
成経 わしはあなたを一人この島に捨てて帰るほどなら、むしろ三人でこの島で餓死《がし》するほうがいい。
俊寛 (涙ぐむ)あなたはほんとうにそう思ってくれますか。
成経 何しにうそを言いましょう。われわれは同じ日にこの孤島《ことう》に流された。同じ船で。それゆえに同じ日に、同じ船でこの島を去らねばならない。われわれはいかほどの困苦《こんく》をともにしてきたことか。われわれの間に不和が生じたとすれば、それは、われわれの受けている運命の苛責《かしゃく》があまりに厳《きび》しかったからだ。
俊寛 (成経を抱《だ》く)わしはあなたのひろい心がありがたい。わしはあなたにとって確かに平和な、親切な友ではなかった。わしの気質は荒くて、ゆがんでいるから。もっとも平和な時でさえも、わしはあまり陰気だったから。あなたがたには、長い歳月《としつき》の間さぞわしが堪《た》え難《がた》い重荷《おもに》だったろう。でもわしをきらってくださるな。わしはあまりにさびしい。(沖《おき》を見る)あゝ、あの船を見るとわしは変にさびしくなる。初めてあの帆影《ほかげ》を見た時暗い陰《かげ》がわしの心をおおうてきた。あの船には何かわしを不幸にするものが乗っているような気がする。「死」が乗っているような気さえする。わしは今|本能的《ほんのうてき》に助け手を求める。忠実な友がそばにいてくれることが、今のわしには絶対的に必要だ。
康頼 わしはあなたの最後までの助け手だ。死に到るまでかわらぬ忠実なる友だ。
俊寛 あゝ、あなたは心強いことを言ってくださる。(康頼の顔を見る)どうしてあなたがたのかほどの強い励《はげ》ましが、わしの不安を払いのけてくれぬのだろう。
康頼 わしはあなたをあわれむ。あなたはきょうはどうかしていられる。あまり異常な幸福が近づいたために、心がその喜びをにないきれなくなって、平衡《へいこう》を失ってしまったのではないか。
俊寛 ほんとうに、ほんとうにわしを見捨てませんか。
康頼 わしの目をごらんなさい。あゝ、あなたは泣いていますね。どうしたと言うのだろう。
俊寛 (康頼の足もとに崩《くず》れて泣く)
成経 あなたはあまりに衰《おとろ》えました。風雨が樹木《じゅもく》を打つように、長い間の不幸があなたを打ったのだ。あなたはあわれな老人のごとく、幸福なときにも泣くことしかできないのだ。あなたの姿《すがた》はあまりにも痛ましい。わしは思いださずにはいられない。われわれが昔あの鹿《しし》が谷のあなたの山荘に密会したころのことを。あのころのあなたのあの鉄のような意志と、鷲《わし》のような覇気《はき》とを。われわれは皆あなたにいちばん信頼していた。
康頼 われわれの意気はすでに平氏をものんでいた。われわれは恐ろしい陰謀《いんぼう》をたくらみながらも、軽い諧謔《かいぎゃく》をたのしみ得《う》るほどに余裕があった。わしは忘れることができない。あの法皇《ほうおう》をひそかに山荘に迎えた夜、清盛《きよもり》をたおす細密《さいみつ》な計略《けいりゃく》を定めたあとで、さながらわれわれの勝利の前祝いのように、期せずして生じたあの諧謔を!
成経 あの機知にみちた、天来《てんらい》の猿楽《さるがく》を!
康頼 成経殿がふと狩衣《かりぎぬ》の袖《そで》に引っかけて、法皇の前にあった瓶子《へいし》を倒したのが初めだった。
成経 平氏が倒れた! とあなたが叫んだ時には、私《わし》はその思いつきに笑わずにはいられなかった。
康頼 西光殿《さいこうどの》が横合いから口を入れて言った。あまりに瓶子《へいし》(平氏)が多いので酔《よ》ってしまった。この目ざわりな瓶子(平氏)をどうしたものだろう、と。
俊寛 (黙然《もくねん》として目を閉じている)
成経 俊寛殿。あなたは覚《おぼ》えているでしょう。その時あなたがひじょうに機知のある、不思議なほどに甘いつづめ[#「つづめ」に傍点]をつけたのが、この一場の猿楽《さるがく》に驚くほどいきいきした効果を与えたのを。(俊寛苦しそうに首をたれる)あなたは瓶子の首を取って立ちあがりざま、心地《ここち》よげに一座を見回して叫びましたね。平氏の首を取るがいいと。
俊寛 (顔をおおう)わしは恥じる。わしは失敗者だ。すべて愚《おろ》かな愚かなことだった。あなたがたは今いちばん悪いことを思いだしてくれた。わしはこうして立っていられないほど恥ずかしい。あなたがたはわしをこの思い出で元気づけようとしたのか。この皮肉な思い出で……あゝ呪《のろ》われたるわしよ。(痙攣《けいれん》する両手で頭をかかえて砂上《さじょう》に伏す)
康頼 (気の毒に堪《た》えざるごとく)わしが愚かなことをしたのならわしは悔いる。許してください。わしは今あなたを慰《なぐさ》めることならどんなことでもしたい。俊寛殿、今、われわれの時が来つつあるのだ。この幸福の予感の中《うち》にあって、わしが少し軽い心になっても許してください。わしは足が地につかないような気さえしている。あなたといえば、どうしてこんなに不幸その
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