ではない。まぼろしだ。わしは白昼《はくちゅう》に見たのだから。それは無数の霊の空中に格闘《かくとう》する恐ろしい光景であった。わしは武器の鏗鏘《こうそう》として鳴る音を空中に聞いた。そのあるものは為義《ためよし》のようであった。そのあるものは信西《しんぜい》のようであった。彼らは叫び、呪《のろ》い、刃《やいば》をもって互いに傷《きず》つけた。その争闘ははてしないように見えた。ついに幻影の群勢《ぐんぜい》は格闘しながら海の中へ没した。そしてわしは地に倒れた。
康頼 あなたは頭が変になりかけているのだ。夜も眠らずにあまり思いつめるから。心を静めるようにしなくてはあなたが狂気することをわしは恐れる。
俊寛 わしはむしろ気ちがいになりたい。そしてこの昼夜|間断《かんだん》のない苛責《かしゃく》から免《のが》れたい。
成経 あなたはわしの誇《ほこ》りをも、康頼殿の信仰をもこわしてしまおうとするのだ。そして自分の心をもかき乱してしまおうとするのだ。
俊寛 あゝ、わしはだめだ。わしは自分を支《ささ》えることができない。支えるものが一つもない。わしの魂《たましい》が亡《ほろ》んでゆくのをはっきりした意識で見ているのは堪《た》えられない。
成経 わしはあなたを見ているのは堪えられない苦痛になりだした。あなたはだんだん荒くなられる、あなたと毎日いっしょに暮らさなければならないことはわしの重荷になりだした。あなたはわしたちに不幸と絶望との息を吐《は》きかける。そしてわしたちに慰《なぐさ》めを与えてくれないばかりでなく、わしたちから何の慰めをも受け取ろうとしない。
俊寛 おゝ、あなたは何を言いますか。これほど慰めに飢《う》えているわしに! ([#「! (」は底本では「!(」]いらだつ)ただわしは知ってきた。あなたがたはもはやわしに送る何の力も持っていられない。餓鬼《がき》は餓鬼に求めても何ものをも与えられない。
成経 (くちびるをふるわす)あなたは餓鬼かもしれない。だがわしは名誉ある武士のすえだ。正義の殉教者《じゅんきょうしゃ》の子だ。
俊寛 七人の僧を暗殺し、神をけがしたものの子だ。
成経 あなたは父の墓をあばいて、死骸《しがい》に唾《つば》を吐《は》きかける気か。(俊寛にせまる)
俊寛 (自暴的に)わしは、わしの顔に唾を吐きかけたい。
康頼 (涙ぐむ)よしてください。よしてください。何というあさましいことだろう。わしたちが争い合わなくてはならないとは。わしは思い出さずにはいられない。わしたちのこの島に着いた当初《とうしょ》のあの美しい一致を! わしたちはあたたかくかたまって一団となっていた。不幸とさびしさは三人の心をかたく結合していた。わしはその愛のために死にたいとさえ思っていた。わしたちはこの欠乏と艱苦《かんく》との中にあって、友情をさえ失わなければならないのか。わしはあなたがたがだんだん不和になってゆくのを見ているのは実に苦しい。いつも仲裁《ちゅうさい》者の位置に立たねばならぬのはたまらない。わしがいなかったらあなたがたは互いに飛びかかるようになりはしないかと思うと恐ろしい。檻《おり》の中の獣《けもの》のように。
成経 (涙ぐむ)わしはあまりの侮辱《ぶじょく》には耐《た》えられない。わしはいつも忍耐《にんたい》を用意しているにはあまりに余裕のない心でくらしている。わしはそれどころではないのだ。わしは不平でくずれそうなのだ。
俊寛 わしはなぜこうなのだろう。わしは呪《のろ》われた人間だ。わしの魂《たましい》の中には荒らす要素がある。わしの行くところはきっと平和がなくなる。わしは小さい時からそのために皆にきらわれてきたのだ。その気質を自分でどんなにきらったろう。しかし変えることができなかったのだ。わしの祖父の血がそうなのだ。わが氏《うじ》の遺伝《いでん》なのだ、わしの運命は不幸になるにきまっていたのだ。いやわしの魂をつくっている要素、わしそのものが不幸なのだ。わしの魂は鎌首《かまくび》をもたげていつもうろうろしている。心の座《ざ》が[#「座《ざ》が」は底本では「座《き》が」]定まらない。わしは失われる人間なのか。地獄《じごく》におちる人間なのか。(ほとんど慟哭《どうこく》に近いため息)あゝ。
康頼 (傍白)あゝ何という不幸な目つきだろう。暗い影が一ぱいさしている。
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三人沈黙。山鳴りいよいよ激しくなる。
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成経 あゝまた山が荒れるな。
康頼 明日《あした》はいよいよ雨だな。(空を仰ぎ嘆息《たんそく》す)あのしつこい。退屈な。
成経 (力なく)明日はしけだ。船の姿《すがた》も見られぬわい。
俊寛 (山のほうを見る)あゝ。あの山くらいいやな山はない。まるでわしたちを呪ってでもいるようだ。(ふるえる)わしの魂の来世《らいせ》の行く先を暗示してでもいるようだ!
康頼 おゝ。神々よ。(ひざまずく)やわらぎたまえ。
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三人沈黙。も一度激しき山の鳴動。その後を単調な弾力《だんりょく》のない波の音ひびく。
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[#地から3字上げ]――幕――
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第二幕
第一場
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第一幕と同じさびしき浜辺《はまべ》。熊野権現《くまのごんげん》の前。横手に貧《まず》しき森。その一端に荒き丸太《まるた》にてつくれる形ばかりの鳥居《とりい》見ゆ。
第一幕より二年後の春の暮れ。
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康頼 (浜辺《はまべ》に立って海を見入る)あゝ、この離れ島にも春が来たのか。海の色も濃《こ》くなってきた。このふくれるように盛りあがって満ちてくる潮《しお》の香《か》の悩《なや》ましさ! わしはこの島の春がいちばん苦しい。わしの郷愁《きょうしゅう》を堪《た》えがたいほど誘《さそ》うから。乏《とぼ》しい草木《くさき》も春の装《よそお》いをしている。わしは昨日《きのう》森の中を終日《ひねもす》花を捜して歩いた。都《みやこ》にあるような花は一つもなく、皆わしの名を知らぬ花ではあったけれど、それでもわしに春のこころを告げてくれた。交野《かたの》や嵐山《あらしやま》の春を思えばたまらない。桜《さくら》の花のなかに車をきしらせた春を思えば。つんだ花を一ぱい車の中にまいて、歌合わせをして遊んだ昔の女たちを思えば。わしはむしろ死を願う。彼の女らは皆わしに好意を持っていた。わしはやさしくて趣味がすぐれていたから、わしがたわむれに袖《そで》を握って言い寄った時に、あの機知のある歌をつくってわしをたしなめた美しい藤姫《ふじひめ》はどうしたろう。(間)あゝ、わしの幸福は過ぎてしまったのだ。(浜辺《はまべ》を歩む)何というさびしい春だろう! きょうもまた砂浜を走って波とたわむれて遊ぼうか。(汀《みぎわ》をつたう)あゝ浜千鳥《はまちどり》よ。わしの思いをお前が故郷《こきょう》にはこんでくれたら!
成経 (叫びながら登場)餓鬼《がき》だ。これほどあさましくなれば申し分はない。
俊寛 (手を振りつつ成経を追うて登場)待て。あなたはまちがえている。もしあなたの獲物《えもの》なら、わしはあえて取ろうとは思わない。(小鳥の死骸《しがい》を投げつける)
成経 (康頼に)わしは驚いた。わしはあきれた。
俊寛 (康頼に)わしは無理にわしの獲物だというのではないのだ。
康頼 (悲しげに)あなたがたは獲物の争いまでしだしたのか。
成経 わしがたしかに射落《いお》とした鳥を横取りしようとするのだ。わしの矢が立っているのに!
俊寛 わしはわしが射落としたと思ったのだ。たとえわしが射落としたにせよ、わしがこんなに飢《う》えていなかったら、成経殿に譲《ゆず》っただろう。たかが小鳥一羽ぐらい!
成経 わしは他人の惜《お》しみのかかった獲物をほしいとは思わない。(俊寛の前に小鳥をたたきつける)持ってゆけ!
俊寛 持ってゆけ! (弓ではね飛ばす)
成経 わしはいらない。呪《のろ》われでもしたらたいへんだ。
俊寛 (あざけるごとく)あなたの父ではあるまいし。
成経 (火のごとく怒る)もう一度言ってみよ。墓場に眠っている父を侮辱《ぶじょく》されるのが子にとってどんなものだか! (弓を取って詰め寄せる)
俊寛 わしを射《い》る気か。(身構えする)
成経 武器を取れ。わしはお前の言葉の価《あたい》をお前に知らせてやる!
康頼 (成経を抱《だ》きとめる)成経殿。軽はずみをしてあとで悔《く》いないために! あなたは敵をほうるようにして友をころす気か!
成経 彼がわしの友だろうか。この荒い言葉と呪《のろ》いの言葉を吐《は》き出す餓鬼《がき》のようなやつが。
俊寛 わしを殺せ。わしは死を願う。わしの境涯《きょうがい》は餓鬼道より少しもまさってはいない。
康頼 (成経と俊寛との間に身を投げる)あゝ、あさましい何たることだ! あなたがたは正気を失ったのか。わしは信じられない。愛する友が互いに呪い合い、汚《けが》す言葉を吐き合い、互いに殺し合おうとする! 名誉ある武士のすえが、食物を争い合う。あゝ、そんなあさましいことをするよりわしは餓死《がし》を選ぶ。わしらの間にはもう平和《へいわ》は失われた。いっしょに暮らすことは互いの重荷《おもに》になった。もはや何の慰《なぐさ》めも励《はげ》ましも互いに期待することはできないのか。あゝ、凱歌《がいか》をあげているものはただ清盛《きよもり》だけだ! あなたがたは知っていよう。檻《おり》につないだ二頭の獣《けもの》の間に食物を投じればどうなるかということを! それとあなたがたとどこが違うのか。あゝ、わしが今見たことは恐ろしいことだ。(泣く)
成経 (涙ぐむ)康頼殿。あまりに心を痛めないでください。わしは優《やさ》しいあなたの心を傷《きず》つけたのを悔《く》いる。あなたはどんなにいい友だったろう。わしの寂寞《せきばく》はいつもあなたの平和な、あたたかい友情でなぐさめられているのだ。わしの今したことをあなたに恥じる。(康頼の肩に手をおく)わしはもはや決してあなたの目に荒々しいふるまいは見せまい。このやさしいあなたの心の平和を保つだけにでも! 許してください。
俊寛 わしをきらってくれ、きらってくれ。わしはそれに相当している。わしは荒々しい人間だ。わしは平和を恵まれない人間だ。どうぞわしを捨ててくれ。憎《にく》んでくれ。あなたがたは仲よく慰《なぐさ》め合って暮らしてくれ。わしはそれを望む。わしはそれをねたんではならない。(慟哭《どうこく》す)
康頼 (俊寛を抱《だ》く)俊寛殿。わしはあなたを悪い人とは思いません。あなたは憎《にく》むべき人ではない。むしろあなたは感じやすい心を持っていられる。もしあなたが荒々しくなったとしたら、それはあなたがあまりに不幸だからだ。
成経 (和解を求めるように)そうだ。われわれはこの上もなく不幸なのだ! その不幸を三人で分け持たなくてはならない。われわれの心が少しでもかろくなるために、われわれが苦しみに負けてくずれてしまわないために、力をあわせなくてはならないのだ。
俊寛 (嘆息する)わしはあなたがたがだんだんわしをきらうようになるような気がする。そしてそうなるのは無理はないと思う。わしは実際いっしょに暮らしよい人間ではない。自分でそれを認める。わしはきらわれてもしかたがない。あゝ、しかしわしはさびしいのだ。きらわれたくはないのだ。愛されたいのだ。それだのにわしは荒いことを言う、ひねくれたことを考える。気まぐれな小鬼《こおに》めがわしの生命中に巣を食《く》っているようだ。わしの気質は自分の自由にならないのだ。わしは孤立無縁《こりつむえん》の霊魂《れいこん》だ。人とやわらぐことのできない粗野《そや》な性格だ。わしはわしを呪《のろ》う。わしを憎《にく》む。おゝわしをあわれむ。
康頼 俊寛殿。心を平らかにしてく
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