康頼 (うつむく)わしはそれを信じます。
俊寛 (ため息をつく)あゝ、あなたは囚徒《しゅうと》のごとく不安な態度で仏の名を呼ばれます。このたいせつな証《あかし》をたてるのにわしの顔をも見ないで――あゝ。
成経 (堪《た》えかねたるごとく)康頼殿の唯一の希望をこわすのはよしてください。
俊寛 いや。わしはわしの唯一の希望をこわしました。
成経 (俊寛の肩をたたく)われわれは今絶望する時ではありません。われわれは最後の瞬間まで勇士としての覚悟《かくご》を失いますまい。勇士の子孫としての誇《ほこ》りを。あなたはあまりに衰えました、わしたちがいかにあなたに信頼しているかを思ってください。
俊寛 わしはもうその誇りを失いそうです。
成経 蘇武《そぶ》は胡国《ここく》との戦争に負けて、異域《いいき》の無人《むにん》の山に飢《う》えた獣《けもの》のようになって、十五年間もさまよい暮らしました。しかしその困苦に耐《た》えきってついに漢王の都《みやこ》に帰ることができたではありませんか。
俊寛 あゝ、都よ、都よ、私はその都という言葉を聞いただけでも恋しさにふるえるようだ。
成経 帰れますよ、きっとも一度その都の地を踏《ふ》む時が来ます。
俊寛 もし清盛《きよもり》がも一度都へかえしてくれたら、わしは清盛がわしに加えた罪悪をも許してやり、清盛の武運を祈ってでもやろうものを。
成経 おゝ、わしはわしの耳を信ずることができない、あなたの口からそんな言葉の出るのを聞くとは思わなかった。
康頼 俊寛殿はもはや何も反省することはできないのです。夢中で言っているのです。故郷《こきょう》を慕《した》うほかには何も考えられないのです。
俊寛 (耳を傾けず)妻はどうしているだろう。あの気の弱い妻は。娘はどうしたろう。もう今年は十一になるはずだ。おゝあのよく泣いて母を困らせた伜《せがれ》はどうしたろう。あの小さな、かわゆいやつは無事《ぶじ》に育っているだろうか。(間)もしや清盛《きよもり》が。(ふるえる)いや、そんなことは決してない。彼だって人間の心は持っているだろう。重盛《しげもり》もついている。あゝそれよりももしやあの純潔な、誇《ほこ》りをもった妻が、侮辱《ぶじょく》されるのを恐れて、子供を刺《さ》し殺して、自害《じがい》しはしなかったろうか。いや決してそんなことはあるまい。わしの安否《あんぴ》も定《き》まらぬうちに、自害する勇気はとてもあるまい。それに有王《ありおう》がついている。あの忠実な勇敢な下僕《しもべ》が。他のすべての家来《けらい》が皆そむき去っても、有王だけはきっと最後まで守護していてくれるだろう。(間)しかし、もしも、もしも。(間)わしの苦しみは決定《けつじょう》することのできない苦しみだ。決定する材料の得られない苦しみだ。しかも死んでいるか、生きながらえて恥を忍《しの》んでいるか、二つの凶事《きょうじ》の中《うち》から、決定しなくてはならないのに! わしは人間に想像力があるのが恐ろしい。不吉な想像よ。わしを放《はな》ってくれ。わしに息をつかせてくれ。
康頼 神様にすがりましょう。霊験《れいげん》あらたかな熊野権現《くまのごんげん》の利益《りやく》によって――
俊寛 もうよしてください。神の名をきくのもいやな気がする。私は信じません。われわれの神はすでにわれらを見捨てたのではないか。正しきわれらを。そして清盛の悪を祝しているのでないか。
康頼 神のことをそんな言い方なさっては――
俊寛 ちょうど暴虐《ぼうぎゃく》な主人に仕《つか》える犬が、幾たび鞭《むち》で打たれても、今度は、今度はと思って、媚《こ》びるように尾を振っては、あわれみを乞《こ》うような眼つきをして、泣き声をたてるのを聞くようないまいましい気がする。
康頼 (力なく)あなたはわしを犬にたとえるのですか。
俊寛 主人はほかに気にいる犬を手に入れたので、もうその犬を殺そうと無慈悲《むじひ》に決心している。主人の興味はもはやいかにおもしろく殺そうかということにのみかかっている――
康頼 神の名のために、俊寛殿。
俊寛 (ののしるように)われわれはもはや神を捨てて外道《げどう》を祭ったほうがいいかもしれない。
成経 (耳をおおう)わしはたたりを恐れます。
俊寛 (この前後より山鳴動することはげしくなる)みなたたりかもしれない。(何ごとかを思いだす。おののく)われら一味はもうとくからたたられているのだ。わしは今ほんとうにそう思う。わしはきょうまで隠《かく》していたことを話してしまおう。わしはひとりでこの重荷《おもに》を心に負うているのにもはや堪《た》えきれなくなった。
成経 もはやこの上けがす言葉を吐《は》くのはよしてください。
俊寛 (成経の顔を見る)あなたは何も知りませんな。成親殿《なりちかどの》はわが子に語ることをも恐れていたとみえる。
成経 父が何といたしました。
俊寛 成親殿は神をけがしました。
成経 少しお慎《つつし》みなされい。いかに自棄《やけ》になっているとは言いながら。
俊寛 このことを知っているのはわしとあなたの父上よりほかにはない。成親殿は恐ろしいことをたくらみました。わしは一生懸命とめてみたのだ。しかし成親殿はまるで何ものかにつかれているように頑固《がんこ》だった。わしは力の限り抵抗したけれども、彼の欲望に征服されてしまった。彼の欲望は奈落《ならく》の底に根を持っているように強かった。
成経 この上聞くのは恐ろしい。しかしわしの耳は聞かずにはいられない。
俊寛 わしは短く話します。思いだすのも恐ろしいから。あなたは成親殿《なりちかどの》が宗盛《むねもり》と左大将《さだいしょう》の位を争ったのを知っていますね。
成経 父は宗盛をひどく憎《にく》んでいました。法皇《ほうおう》は父にその位を与えたいと思っていられるのに、あの清盛《きよもり》がそれを妨《さまた》げましたから。
俊寛 あの時成親殿は八幡《はちまん》の甲良大明神《こうらだいみょうじん》に百人の僧をこもらせて、大般若《だいはんにゃ》を七夜《ななよ》の間|行《ぎょう》じさせました。その時宮の前の櫺《れんじ》の木に、男山《おとこやま》のほうから山|鳩《ばと》が三羽飛んできて怪《あや》しい声で鳴きつつ食《く》らい合いをはじめました。それがいかにもしつこく、憎み合っているように、長い長い間。ついに三羽ともたおれて死んでしまうまで。わしはその時恐ろしくなって、これはきっと凶兆《きょうちょう》だからと言って彼をとめました。しかし彼はききいれなかった。しかしあの青二才の宗盛が多くの位を飛び越えて、ついに左大将になった時に彼の怨恨《えんこん》は絶頂に達しました。彼は上賀茂《かみがも》の神社の後ろの森の中に呪詛《じゅそ》の壇を築いて、百夜《ももよ》の間|※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]幾爾《だきに》の密法《みっぽう》を行じました。宗盛を呪《のろ》い殺すために。夜陰《やいん》の森中《もりなか》に、鬼火《おにび》の燃える鼎《かなえ》の中に熱湯《ねっとう》をたぎらせて、宗盛《むねもり》に似せてつくった藁《わら》人形を煮《に》ました。悪僧らはあらゆる悪鬼の名を呼んで、咒文《じゅもん》を唱えつつ鼎《かなえ》のまわりをまわりました。まるで夢中で、つかれたもののように、しつこくしつこく繰《く》り返して。
成経 父はむろんその場にいなかったのでしょうね。ただ命じてやらせたのでしょうね。
俊寛 いや。成親殿《なりちかどの》は夜陰《やいん》にまぎれて毎夜賀茂の森まで通いました。大杉の洞《ほら》の下の壇の前にぴたりとすわっていました。顔はまっさおでしかも燃えるような目で僧らの所業《しょぎょう》を見ていました。
成経 わしの知らぬ間《ま》にそんな恐ろしいことが人知れずなされたとは!
俊寛 それを秘密にするために彼は恐ろしいことをしました。わしはそれを一生懸命とめたのだが。※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]幾爾《だきに》の密法は容易ならざる呪詛《じゅそ》であって、もし神々がそれを受けない時には還着於本人《げんちゃくおほんにん》と言って詛《のろ》ったものに呪詛がかえるのだからといって。
康頼 あゝ、よしてください。この上もはや成経殿を――
成経 言ってください。早く言ってください。
俊寛 満願《まんがん》の夜成親殿は秘密の露顕《ろけん》することを恐れて七人の僧侶を殺して、その死骸《しがい》を地の中に埋めました。
成経 おゝ。(石のごとくかたくなる)
俊寛 それからは彼の企てることは恐ろしいことばかりになった。宗盛は死ななかった。そして平家の一門がますます栄えるにつれて、彼の怨恨《えんこん》はいよいよつのるばかりだった。彼はいかにして平家を転覆《てんぷく》して恨《うら》みを復讐《ふくしゅう》すべきかをばかり考えるらしかった。彼はまるで怨恨の権化《ごんげ》のようにわしには見えた。
成経 あゝ悪魔が父を魅《み》入ったのか。
俊寛 (ふるえる)あゝ今恐ろしい考えがわしの心に起こった。まるで陰府《よみ》からわき上がりでもしたように。
康頼 (堪《た》えかねたるごとく制するごとき手つきをしつつ)俊寛殿。俊寛殿。
俊寛 (つかれたもののごとく)怨霊《おんりょう》だ。怨霊だ。
康頼 成経殿の心臓の止まらないために!
俊寛 わしはこの思いつきにふるえる。信頼《のぶより》の怨霊が成親殿《なりちかどの》にのりうつったのだ。あの平治《へいじ》の乱に清盛《きよもり》に惨殺《ざんさつ》された信頼の怨霊が。
成経 あゝ呪《のろ》われたる父よ。(よろめく)
俊寛 保元《ほうげん》の乱に頼長《よりなが》の墓をあばいた信西《しんぜい》は、頼長の霊に呪《のろ》われて平治《へいじ》の乱には信頼に墓をあばかれた。信西の霊は清盛について、信頼を殺させた。今信頼の霊は成親殿にのりうつった。
成経 おゝ神々よ。
俊寛 しかし成親殿は世にもみじめな最後をとげた。父の恨《うら》みを相続するものは子でなくてはなるまい。成親殿の怨霊はあなたにつくに相違ない。
成経 あなたは悪とたたかって難にあったわれわれをいたずらに醜《みにく》い復讐心《ふくしゅうしん》を満たそうとして失敗したあわれむべき破産者におとしてしまおうとするのか。正義に殉《じゅん》じた父をただの犬死にさせ、あの堪《た》えられないほどな恥《はじ》な最後にも相当していたような、醜い人間にしてしまおうとするのか。(俊寛につめ寄せる)
康頼 (なだめるように)成親殿《なりちかどの》は今は平和に眠っていられるとわしは思います。
俊寛 (苦しそうに)その正義の観念の上にはっきり立っていられなくなりだしたのがわしの苦しみなのだ。いかなる困苦《こんく》と欠乏とに悩《なや》もうとも自分は正しきものである! かく考えることによってわしは自分の不幸を支えていた。しかしわしはそれがあやしくなりだした。わしは勢いに巻き込まれたのだという気がする。他人の欲望――というよりも、むしろ無始《むし》以来結ぼれて解けない人間の怨讐《おんしゅう》の大|渦《うず》のなかに巻き込まれたのだという気がする。わしたちがもしことを起こさなかったらだれかがきっと起こしたろう。われわれはただ選ばれたのにすぎない。三界《さんがい》をさまようている怨霊《おんりょう》につかれたのにすぎない。
康頼 あなたは自分でつくりだした恐ろしいまぼろしで自分を苦しめていられるのだ。
俊寛 わしはわしのしぶとい性質を呪《のろ》う。しかしわしはだめだ。わしは人間の悪が根深い根深いものに見える。二人や三人の力で抵抗しても何の苦もなく押しくずされるような気がする。わしの父、父の父、またわしのあずかり知らない他人、その祖先、無数の人々の結んだ恨《うら》みが一団になって渦巻いている。わしはその中に遊泳《ゆうえい》しているにすぎない。わし自身の欲望はその大いなる霊の欲望に征服される。そしてその欲望を自分の欲望だと思ってしまう。あゝわしはこの間恐ろしい[#「恐ろしい」は底本では「恐しい」]夢を見た。いや、夢
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