でいます。
僧一 (驚きて親鸞を見る)あなたがですか。
親鸞 私はなぜこうなのだろうといつも自分を責めています。よくよく私は業《ごう》が深いのだ。私の老年になってこうなのだから、若い唯円が苦しむのも無理はない。しかし私は決して救いは疑わぬのだ。仏かねて知ろしめして煩悩具足《ぼんのうぐそく》の凡夫《ぼんぶ》と仰せられた。そのいたし方のない罪人の私らをこのまま助けてくださるのだ。
僧三 では知応《ちおう》殿のお考えは間違いでございますか。
親鸞 いや間違いではない。人によって業の深浅があるのだ。法悦の相続できる人は恵まれた人だ。私はそのような人を祝福する。ある人は煩悩が少なく、ある人は煩悩が強くて苦しむのだ。ただ法悦を救いの証《あかし》とするのが浅い。知応にも話そうと思っているがよくお聞きなさい。救いには一切の証はありませんぞ。その証を求めるのはこちらのはからいで一種の自力《じりき》です。救いは仏様の願いで成就している。私らは自分の機にかかわらずただ信じればよいのです。業の最も浅い人と深い人とはまるで相違したこの世の渡りようをします。しかしどちらも助かっているのです。
唯円 私はありがたい
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