てお経を読んでも心が躍《おど》らない時があります。私は病身で先月も少し熱が高かったので死ぬのではないかとこわくてたまりませんでした。今死んでは惜しくてなりません。私はなんだかあくがれるような、浮き世をなつかしむような気が催して来ます。知応様のように強い証《あかし》を立てる事ができません、法悦が救いの証拠とすれば私は救われていないのでしょうか。私はこのようでも仏様が助けてくださる事だけは疑わないのですけれど……
僧一 からだの弱いせいだろうと私は思います。
僧三 やはり信心が若いからではありますまいか。
唯円 お師匠様、いったいどうなのでございましょう。教えてください。私は不安でたまりません。私は助かっていますか。いませんか。
親鸞 助かっています。心配する事はありません。実は私も唯円と同じ心持ちで暮らしています。病気の時は死を恐れ、煩悩《ぼんのう》には絶えず催され、時々はさびしくてたまらなくなる事もあります。踴躍歓喜《ゆやくかんぎ》の情は、どうもおろそかになりがちでな。時に燃えるような法悦三昧《ほうえつざんまい》に入る事もあるが、その高潮はやがて灰のように散りやすくてな。私は始終苦しん
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