てお経を読んでも心が躍《おど》らない時があります。私は病身で先月も少し熱が高かったので死ぬのではないかとこわくてたまりませんでした。今死んでは惜しくてなりません。私はなんだかあくがれるような、浮き世をなつかしむような気が催して来ます。知応様のように強い証《あかし》を立てる事ができません、法悦が救いの証拠とすれば私は救われていないのでしょうか。私はこのようでも仏様が助けてくださる事だけは疑わないのですけれど……
僧一 からだの弱いせいだろうと私は思います。
僧三 やはり信心が若いからではありますまいか。
唯円 お師匠様、いったいどうなのでございましょう。教えてください。私は不安でたまりません。私は助かっていますか。いませんか。
親鸞 助かっています。心配する事はありません。実は私も唯円と同じ心持ちで暮らしています。病気の時は死を恐れ、煩悩《ぼんのう》には絶えず催され、時々はさびしくてたまらなくなる事もあります。踴躍歓喜《ゆやくかんぎ》の情は、どうもおろそかになりがちでな。時に燃えるような法悦三昧《ほうえつざんまい》に入る事もあるが、その高潮はやがて灰のように散りやすくてな。私は始終苦しんでいます。
僧一 (驚きて親鸞を見る)あなたがですか。
親鸞 私はなぜこうなのだろうといつも自分を責めています。よくよく私は業《ごう》が深いのだ。私の老年になってこうなのだから、若い唯円が苦しむのも無理はない。しかし私は決して救いは疑わぬのだ。仏かねて知ろしめして煩悩具足《ぼんのうぐそく》の凡夫《ぼんぶ》と仰せられた。そのいたし方のない罪人の私らをこのまま助けてくださるのだ。
僧三 では知応《ちおう》殿のお考えは間違いでございますか。
親鸞 いや間違いではない。人によって業の深浅があるのだ。法悦の相続できる人は恵まれた人だ。私はそのような人を祝福する。ある人は煩悩が少なく、ある人は煩悩が強くて苦しむのだ。ただ法悦を救いの証《あかし》とするのが浅い。知応にも話そうと思っているがよくお聞きなさい。救いには一切の証はありませんぞ。その証を求めるのはこちらのはからいで一種の自力《じりき》です。救いは仏様の願いで成就している。私らは自分の機にかかわらずただ信じればよいのです。業の最も浅い人と深い人とはまるで相違したこの世の渡りようをします。しかしどちらも助かっているのです。
唯円 私はありがたい気がいたします。もったいないほどでございます。
僧一 私はそこに気がつきませんでした。法悦《ほうえつ》があっても、なくても、私らの心のありさまの変化にはかかわりなしに救いは確立しているのでございますね。
親鸞 それでなくては運命にこぼたれぬ確かな救いと言われません。私らの心のありさまは運命で動かされるのだからな。
僧三 やはり自らの功で助けられようとする自力根性《じりきこんじょう》が残っているのですね。すべてのものを仏様に返し奉る事は容易ではございませんね。
親鸞 何もかもお任せする素直な心になりたいものだな。
唯円 聞けば聞くだけ深い教えでございます。
親鸞 みんな助かっているのじゃ。ただそれに気がつかぬのじゃ。
僧二 (登場)皆様ここにいられましたか。今やっと説教が済みました。(興奮している)
親鸞 御苦労様でした。しばらくここでお休みなさい。
僧二 お師匠様にお願いであります。ただ今私が説教を終わりますと、講座のそばに五、六名の同行《どうぎょう》が出て参りまして、親鸞様にぜひお目にかかりたいから会われるようにとりなしてくれと頼みました。
親鸞 何か特別な用向きでもあるのですか。
僧二 往生《おうじょう》の一大事について承りたき筋あって、はるばる遠方から尋ねて参ったと申します。皆熱心|面《おもて》にあふれていました。
親鸞 往生《おうじょう》の次第ならばもはや幾度も聴聞《ちょうもん》しているはずだがな。まことに単純な事で私は別に話し加える事もありませんがな。
僧二 私もさよう申し聞かせました。ことに少し御不例ゆえまた日をかえていらしたらどうかと申しました。しかし皆はるばる参ったものゆえ、ぜひ親鸞様にお目にかからせてくれと泣かぬばかりに頼みます。あまり熱心でございますから、私も不便《ふびん》になりまして、御病気のあなたを煩《わずら》わすのは恐れ入りますが、一応お尋ね申す事にいたしました。
親鸞 それはおやすい事です。私に会いたいのならいつでもお目にかかります。ただ私はむつかしい事は知らぬとその事だけ伝えておいてください。ではここへすぐ通してください。
僧二 ありがとうございます。さぞ皆が喜ぶ事でございましょう。(退場)
僧一 遠方から参ったものと見えますな。
僧三 熱心な同行衆《どうぎょうしゅう》でございますね。
唯円 お師匠様に会いたさにはるばる京にたずねて来た
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