ね。あなたはいつか偽善者は人殺しよりも仏に遠いとおっしゃいましたね。
親鸞 そのとおりだ。百の悪業《あくごう》に催されて自分の罪を感じている悪人よりも、小善根を積んでおのれの悪を認めぬ偽善者のほうが仏の愛にはもれているのだ。仏様は悪いと知って私たちを助けてくださるのだ。悪人のための救いなのだからな。
唯円 善《よ》いものでなくては助からぬという聖道《しょうどう》の教えとはなんという相違でございましょう。
親鸞 他人はともあれ、私のようなものはそれでは助かる見込みはつかないのだ。私は今でも忘れ得ぬが、六角堂に夜参りして山へ帰る道で一人の女に出会ってね。寒空《さむぞら》に月が凍りつくように光っている夜だったよ。私を山へ連れて登ってくれというのだ。私は比叡山《ひえいざん》は女人禁制《にょにんきんぜい》で女は連れて登るわけに行かないと断わったのだ。すると私の衣の袖《そで》にすがって泣くのだ。私も修行して助けられたいからぜひ山へ連れて行って出家にしてくれと一生懸命に哀願するのだ。いくら言っても聞き入れないのだ。はては女は助からなくてもよいのですかと恨むのだ。私は実に困った。山の上では女は罪深くして三世の諸仏も見捨てたもうということになっているのだ。しかたがないから私はそのとおりを言ってあきらめさせようとした。すると女は見る見るまっさおな顔をした。やがて胸をたたいて仏を呪《のろ》う言葉を続発した。それから一目散に走って逃げてしまった。
唯円 まあかわいそうな事をなさいましたね。
親鸞 でも山の上へは連れて行けなかったのだ。あらしで森ははげしく鳴っている。私は女の呪いが胸の底にこたえて夢中で山の上まで帰った。その夜はまんじり[#「まんじり」に傍点]ともしなかった。それからというものは私は女も救われなくてはうそだという気が心から去らなくなった。私は毎夜毎夜六角堂に通《かよ》って観音様に祈った。夢中で泣いて祈った。私は死んでもよいと思った。私はそのころからものの見方がだいぶ変わって来だした。山上の生活をきらう心は極度に達した。私は六角堂から帰りによく三条の橋の欄干にもたれて往来の人々をながめた。むつかしそうな顔をした武士や、胸算用に余念の無さそうな商人や、娘を連れた老人などが通った。あるいは口笛を吹きながら廓《くるわ》へ通うらしい若者も通った。私はどんなに親しくその人たちをながめたろう。皆許されねばならないような気がした。世の相《すがた》をあるがままに保っておくほうがよいという気がした。「このままで、このままで」と私は心の中に叫んだ。「みんな助かっているのでは無かろうか」と。山へ帰っても、もはや、そこは私の住み家ではない気がした。
唯円 その時|法然聖人《ほうねんしょうにん》にお会いなされたのですね。
親鸞 まったく観音様のおひきあわせだよ。私は法然様の前で泣けて泣けてしかたがなかったよ。
唯円 (涙ぐむ)あなたのお心は私にもよくわかります。
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両人しばらく沈黙。僧一、僧三登場。
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僧一 お師匠様はここにいられましたか。
親鸞 唯円と日向《ひなた》で話していました。
僧三 御気分はいかがでございますか。
親鸞 もうほとんどよいのだよ。ありがとう。
僧一 それはうれしゅうございます。大切にあそばしてください。
親鸞 お前たちもここでお話しなさい。本堂のほうはどうだった。
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唯円、座ぶとんを持ちきたり、両人にすすめ、茶をつぐ。
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僧三 いっぱいの参詣人でございます。お勤めが済みまして、今は知応《ちおう》殿の説教最中でございます。
僧一 知応《ちおう》殿の熱心な説教には皆感動したようでございました。
僧三 権威のある、強い説教でした。皆かしこまって聴聞《ちょうもん》いたしていました。
僧一 きょうの説教はことに上できでございました。
親鸞 やはり法悦《ほうえつ》という題でしたのだな。
僧三 御存じでいらっしゃいますか。
親鸞 知応が私に話した事もあるし、さっき唯円からちょっと聞いた。
僧一 宗教的歓喜というものがいかに富や名誉など、地上の楽よりもすぐれて尊いかを高潮してお話しなされました。
僧三 恋よりも楽しいとさえおっしゃいました。
唯円 死の恐怖もなく孤独のさびしさもなく、浮き世への誘惑も無いとおっしゃいました。
僧一 法悦は救いの証拠であると言われました。
僧三 私たち出家しているものの、特別に恵まれた境遇である事を、あの説教を聞いて私は今さらのごとくに感じました。
唯円 私はあれを聞いて不安な気がいたします。私はこのごろはさびしい気がいつもいたします。ぼんやりし
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