る者 人はその日の午後に来た道楽者の煙突|掃除人《そうじにん》をしあわせものだと言っていた。
人間 (うめくように)芸術だ。たしかなものは芸術です。わたしはわたしの涙で顔料を溶かします。私の画布の中にこわれないたしかなものを塗りこみます。
顔蔽いせる者 ここまで来てはもうたしかなともたしかにないともわしは言わない。だが、お前はお前の病気のことを忘れはしまいな。
人間 片時も。あなたが私の健康を奪ってしまったのが私の不幸のはじまりでした。そしてあなたを知るはじまりでした。それからというもの私がどれほど苦しんでいるか!
顔蔽いせる者 お前の体温がもう二度高くなればお前は刷毛《はけ》を捨てねばなるまい。
人間 おゝ。
顔蔽いせる者 それは起こり得ぬ事だろうか。今だってお前は毎日熱が出るのではないか。
人間 祈りです。たしかなものは祈りです。私は寝床のなかで身動きもできなくとも目をつむって祈ることができます。
顔蔽いせる者 一つの打撃がお前の頭の調和を破れば、お前は今まで祈った口でたわいもない囈言《うわこと》を語り、今まで殊勝に組み合わせた手できたならしいことを公衆の前にして見せるかもしれない。あの動物園の猿《さる》のように。
人間 (よろめく)そんなことはあり得ぬことだ。
顔蔽いせる者 ありうることだ。現にお前たちの仲間はこのごろ盛んに殺し合っているようだが、そのような白痴が幾人できたか知れない、――
人間 あなたはあまり残酷だ。
顔蔽いせる者 お前の価に相当しただけ、――
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鳥獣ら無数の生物の群れのおらぶ声起こる。
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人間 (おののきつつ)あの声は?
顔蔽いせる者 お前の殺した生物の呪詛《じゅそ》だ。
人間 あゝ。(頭をおさえる)
顔蔽いせる者 お前は姦淫《かんいん》によって生まれたものだ。それを愛の名でかくしてはいるが。
人間 私の罪を数えたてるのはよしてください。
顔蔽いせる者 限りがないから。――
人間 私は共食いしなくては生きることができず、姦淫しなくては産むことができぬようにつくられているのです。
顔蔽いせる者 それがモータルの分限なのだ。
人間 (訴えるように)人間の苦痛を哀れんでください。
顔蔽いせる者 同情するのはわしの役目ではない。
人間 なぜ? あゝなぜでございますか。
顔蔽いせる者 刑罰だ!(大地六種震動す)
人間 (地に倒れる)
顔蔽いせる者 (消ゆ)
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舞台暗黒。暴風雨の音。やがてその音次第に静まり、舞台ほの白くなり、うす甘き青空遠くに見ゆ。人間の姿|屍《しかばね》のごとく横たわれるが見ゆ。かすかなる音楽。
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童子の群れ (天に現わる。歌を唱う)
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すべての創《つく》られたるものに恵みあれ。
死なざるもののめぐし子に幸いあれ。
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童子の群れ (消ゆ)
人間 (起き上がり天を仰ぐ)遠い遠い空の色だな。そこはかとなき思慕が、わたしをひきつける。吸い込まれるようなスウィートな気がする。この世界が善《よ》いものでなくてはならぬという気がほんとうにしだした。たしかなものがあることは疑われなくなりだした。私はたしかに何物かの力になだめられている。けれど恵みにさだめられているような気がする。それをうけとることが、すなわち福《さいわ》いであるように。行こう。(二、三歩前にあゆむ)向こうの空まで。私の魂が挙《あ》げられるまで。
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[#地から4字上げ]――幕――
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    第一幕

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人物 日野左衛門《ひのさえもん》         四十歳
   お兼《かね》(その妻)       三十六歳
   松若《まつわか》(その息。出家して唯円《ゆいえん》)十一歳
   親鸞《しんらん》            六十一歳
   慈円《じえん》(その弟子《でし》)      六十歳
   良寛《りょうかん》(その弟子)      二十七歳
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      第一場

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日野左衛門屋敷。
座敷の中央に炉が切ってある。長押《なげし》に槍《やり》、塀《へい》に鉄砲、笠《かさ》、蓑《みの》など掛けてある。舞台の右にかたよって門がある。外はちょっとした広場があって通路に続いている。雪が深く積もって道のところだけ低くなっている。
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お兼 (炉のそばで着物を縫うている)やっとここまでできた。あと四、五日も
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