の願いに従いなされませ。あなたの性格が善良なのだからしかたがありません。
左衛門 では善《よ》くなろう、と努めるのも無理ですか。
親鸞 善くなろうとする願いが心にわいて来るなら無理ではありません。素直にというのは自分の魂の本然《ほんねん》の願いに従う事です。人間の魂は善を慕うのが自然です。しかし宿業《しゅくごう》の力に妨げられて、その願いを満たす事ができないのです。私たちは罰せられているのです。私たちは悪を除き去る事はできません。救いは悪を持ちながら摂取されるのです。しかし私は善くなろうとする願いはどこまでも失いません。その願いがかなわぬのは地上のさだめです。私はその願いが念仏によって成仏《じょうぶつ》する時に、満足するものと信じています。私は死ぬるまでこの願いを持ち続けるつもりです。
左衛門 渡世ができなくなりはいたしますまいか。
親鸞 できないほうがほんとうなのです。善良な人は貧乏になるのが当然です。あなたは自然に貧しくなるなら、しかたがないから貧しくおなりなさい。人間はどのようにしてでも暮らされるものです。お経の中には韋駄天《いだてん》が三界を駆け回って、仏の子の衣食をあつめて供養すると書いてあります。お釈迦《しゃか》様も托鉢《たくはつ》なさいました。私も御覧のとおり行脚《あんぎゃ》いたしています。でもきょうまで生きて来ました。私のせがれもなんとかして暮らしています。
お兼 あなたにはお子様がお有りなさるのですか。
親鸞 はい。京に残してあります。六つの年に別れてからまだ会わずにいるのです。
お兼 まあ。そして奥様は?
親鸞 京を立つ時に別れましたが、私が越後《えちご》にいる時に死にましてな。
お兼 御臨終にもお会いなさらないで。
慈円 お師匠様は道のために、お上《かみ》のおとがめをこうむって御流罪《ごるざい》におなりあそばしたのでございます。奥様のおかくれあそばしたのは、その御勘気中で京へお帰りあそばす事はできなかったのです。まだ二十六のお若死にでございました。
良寛 玉日様と申してお美しいかたでございました。それから後の御苦労と申すものは、一通りではございません。なにしろ公家《くげ》の御子息――
親鸞 それはもう言うてくれるな。
お兼 (涙ぐみ)さだめしお子様に会いたい事でございましょうねえ。
親鸞 はい。時々気になりましてな。
お兼 ごもっともでございます。
親鸞 (松若に)お幾つにおなりなさる。
松若 (顔を赤くする)十一。
親鸞 よいお子じゃの。(頭をなでる)
左衛門 少しからだが弱いので困ります。
親鸞 ほんに少し顔色が悪いね。
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一同しばらく沈黙。
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親鸞 良寛、ちょっと私の笈《おい》を見てくれ。最前|杖《つえ》があたった時に変な音がしたのだが、もしかすると……
良寛 (笈をひらいて見る)おゝ阿弥陀《あみだ》様のお像がこわれています。(小さな阿弥陀如来《あみだにょらい》の像を取り出す)
慈円 左のお手が欠けましたな。
左衛門 (青ざめる)私に見せてください。(小さな仏像をつくづく見入る。やがて涙をはらはらこぼす)
親鸞 左衛門殿どうなされた。
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一同左衛門を見る。
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左衛門 私はたまりません。この小さく刻まれたお顔の尊いことを御覧なさいませ。私はこのお像を杖《つえ》で打ちこわしたのです。この美しい左のお手を。指まで一本一本美しく彫ってあるこのお手を。私の魂の荒々しさが今さらのように感じられます。私は悪い事をいたしました。私の業《ごう》の深さが恐ろしくなります。私は親鸞様を打ちました。お弟子《でし》たちをののしりました。そして仏像を片輪にしました。私は、私は……(泣く)
親鸞 左衛門殿、お泣きなさるな。さほどに罪深きあなたをもそのまま許してくださるのが仏様のお慈悲です。この仏像はかたみにあなたにさしあげます。これを見てはあなたの業の深いことを思ってください。そしてその深重《じんじゅう》な罪の子をゆるしてくださる仏様を信じてください。そしてあなたの隣人をその心で愛してください。(間)もうほど無く夜も明けましょう。私はお暇《いとま》いたします。あすの旅路を急ぎます。良寛、慈円、したくをなさい。(親鸞立ちあがる)
左衛門 (親鸞の衣の袖《そで》を握る)どうぞお待ちください。私は出家いたします。これからあなたのお供をいたします。どこまでも連れて行ってください。
親鸞 (感動する)あなたのお心はわかります。私は涙がこぼれます。けれどあなたは思いとどまってください。浄土門の信心は在家のままの信心です。商人は商人、猟師は猟師のままの信心です。
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