し》しました。そして私はその悪からのがれる希望を失いました。私は所詮《しょせん》地獄行きと決定《けつじょう》しました。
左衛門 私はこわくなります。あなたのお話を聞いていると、地獄が無いなどとは思われなくなります。魂の底の鋭い、根深い力が私に迫ってまいります。私は地獄はないかもしれないと、運命に甘えておりました。きょうもせがれに地獄極楽はほんとうにあるのかときかれて私はうそだ、つくり話だと言いましたけれど、自信はありませんでした。地獄だけはあるかもしれないと冗談を言って笑いましたけれどほんとにそうかもしれないという気がして変に不安な気がしました。あなたに会って話していると、私は甘える心を失います。魂の深い知恵が呼びさまされます。そして地獄の恐ろしさが身に迫ります。
お兼 ゆうべの夢の話と言い、私はなんだか気味の悪いここちがするわ。
左衛門 (外をあらしの音が過ぎる)その地獄から免れる道はありませぬか。
親鸞 善《よ》くならなくては極楽に行けないのならもう望みはありません。しかし私は悪くても、別な法則で極楽参りがさせていただけると信じているのです。それは愛です。赦《ゆる》しです。善、悪をこえて働く力です。この世界はその力でささえられているのです。その力は、善悪の区別より深くてしかも善悪を生むものです。これまでの出家は善行で極楽参りができると教えました。私はもはやそれを信じません。それなら私は地獄です。しかし仏様は私たちを悪いままで助けてくださいます。罪をゆるしてくださいます。それが仏様の愛です。私はそれを信じています。それを信じなくては生きられません。
左衛門 (目を輝かす)殺生《せっしょう》をしても、姦淫《かんいん》をしても。
親鸞 たとい十悪五逆の罪人でも。
良寛 御慈悲に二つはございませぬ。
慈円 他力《たりき》の信心と申して、お師匠様のお開きなされた救いの道でございます。
左衛門 (まっさおな、緊張した顔をして沈黙。やがて異常の感動のために、調子のはずれた、物の言い方をする)私は変な気がします。私は急に不思議な、大きな鐘の声を聞いたような気がします。その声は私の魂の底までさえ渡って響きました。私の長く待っていたものがついに来たような親しい、しっくりとした気持ちがします。私はありがたい気がします。私はすぐにその救いが信じられます。そのはずです。それはうそではありません。ほんとうでなければなりません。私は気がつきました。前から知っていたように、私のものになりました。まったく私の所有になりました。ありがたい、泣きたいような気がして来ました。
親鸞 それはほんとうです。私は吉水《よしみず》で法然聖人《ほうねんしょうにん》に会った時、即座にその救いが腹にはいりました。あなたの今の感じのとおりです。さながら忘れていたものを思い出したようでした。まるで単純な事です。だれでもこの自分に近い、平易な真理がわからないのが不思議でした。私たちの魂の真実を御覧なさい。私たちは愛します。そしてゆるします。他人の悪をゆるします。その時私たちの心は最も平和です。私たちは悪い事ばかりします。憎みかつ呪《のろ》います。しかしさまざまの汚れた心の働きの中でも私たちは愛を知っています。そしてゆるします。その時の感謝と涙とを皆知っています。私たちの救いの原理も同じ単純な法則です。魂の底からその単純なものがよみがえって来るのです。そして信仰となるのです。
慈円 あなたは長い間正直に苦しみなさいました。自分の心を直視なさいました。あなたの心の歩みは他力《たりき》の信仰を受け取る充分な用意ができていたのです。
良寛 前のものからあとのものに移る必然性がある時には、たやすいほどな確かさがまるで水の低きに流れるようにして得られるものでございますね。
親鸞 あなたの信心は堅固なものだと存じます。
左衛門 私は今夜はうれしい気がします。この幾年私の心を去っていた平和が返って来たようなここちがいたします。(涙ぐむ)
お兼 ほんとにそうですわ。もうずいぶん長い間あなたが潤うた、和らかな心でいらしたことはありませんわ。
親鸞 あなたは自分を悪に慣らそうとつとめているとおっしゃいましたね。
左衛門 私は生まれつき気が弱くていけないのです。それでは渡世に困るから、もっと悪人にならねばならぬと思ったのでした。
お兼 それで猟を始めたり、鶏をつぶしたり、百姓《ひゃくしょう》とけんかしたりするのでございますよ。
親鸞 私はあなたの心持ちに同情します。しかしそれは無理な事です。あなたは「業《ごう》」ということを考えたことはありませぬか。人間は悪くなろうと努めたとて、それで悪くなれるものではありません。また業に催されればどのような罪でも犯します。あなたは無理をしないで素直にあなたの心のほんとう
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