も呪《のろ》いを解かずに巡礼していらしたなら、私のつくった悪はいつまでも消えずにおごそかに残るにちがいないという気がしました。また私は生きた鶏をつぶす時にいつも感じます。このようなことが報いなくて済むものかと。私はあなたを打ったことを思うと、どうぞ私を打ってくださいといいたい気がします。
親鸞 私は地獄がなければならぬと思います。その時に、同時に必ずその地獄から免れる道が無くてはならぬと思うのです。それでなくてはこの世界がうそだという気がするのです。この存在が成り立たないという気がするのです。私たちは生まれている。そしてこの世界は存在している。それならその世界は調和したものでなくてはならない。どこかで救われているものでなくてはならない。という気がするのです。私たちが自分は悪かったと悔いている時の心持ちの中にはどこかに地獄ならぬ感じが含まれていないでしょうか。こうしてこんな炉を囲んでしみじみと話している。前には争うたものも今は互いに許し合っている。なんだか涙ぐまれるようなここちがする。どこかに極楽が無ければならぬような気がするではありませんか。
左衛門 私もそのような気もするのです。けれどそのような心持ちはじきに乱されてしまいます。一つの出来事に当たればすぐに変わります。そして私の心の中には依然として、憎みや怒りが勝ちを占めます。そして地獄を証《あかし》するような感情ばかり満ちます。
親鸞 私もそのとおりです。それが人間の心の実相です。人間の心は刺激によって変じます。私たちの心は風の前の木の葉のごとくに散りやすいものです。
左衛門 それにこの世の成り立ちが、私たちに悪を強《し》います。私は善《よ》い人間として、世渡りしようと努めました。しかしそのために世間の人から傷つけられました。それでとても渡世のできない事を知りました。死ぬるか乞食《こじき》になるかしなくてはなりません。しかし私は死にともないのです。女房や子供がかわいいのです。またいやなやつの門に哀れみを乞《こ》うて立つのはたまりません。私は悪人になるよりほかに道がありません。けれどそれがまたいやなのです。私の心はいつも責められます。
親鸞 あなたの苦しみはすべての人間の持たねばならぬ苦しみです。ただ偽善者だけがその苦しみを持たないだけです。善《よ》くなろうとする願いをいだいて、自分の心を正直に見るに耐える人間はあなたのように苦しむのがほんとうです。私はあなたの苦しみを尊いと思います。私は九歳の年に出家してから、比叡山《ひえいざん》や奈良《なら》で数十年の長い間自分を善くしょうとして修業いたしました。自分の心から呪《のろ》いを去り切ってしまおうとして、どんなに苦しんだ事でしょう。けれど私のその願いはかないませんでした。私の生命の中にそれを許さぬ運命のあることを知りました。私は絶望いたしました。私は信じます。人間は善くなり切る事はできません。絶対に他の生命を損じない事はできません。そのようなものとしてつくられているのです。
左衛門 あなたのような出家からそのような言葉を聞くのは初めてです。では人は皆悪人ですか。あなたもですか。
親鸞 私は極重悪人です。運命に会えば会うだけ私の悪の根深さがわかります。善の相《すがた》の心の眼《め》にひらけて行くだけ、前には気のつかなかった悪が見えるようになります。
左衛門 あなたは地獄はあるとおっしゃいましたね。
親鸞 あると信じます。
左衛門 (まじめな表情をする)ではあなたは地獄に堕《お》ちなくてはならないのでありませんか。
親鸞 このままなら地獄に堕ちます。それを無理とは思いません。
左衛門 あなたはこわくはないのですか。
親鸞 こわくないどころではありません。私はその恐怖に昼も夜もふるえていました。私は昔から地獄のある事を疑いませんでした。私はまだ童子であったころに友だちと遊んで、よく「目蓮尊者《もくれんそんじゃ》の母親は心が邪険で火の車」という歌をうたいました。私はその歌が恐ろしくてなりませんでした。そのころから私はこの恐怖を持っていたのです。いかにすれば地獄から免れる事ができるか。私は考えもだえました。それは罪をつくらなければよい。善根を積めばよいと教えられました。私はそのとおりをしようと努めました。それからというもの、私は艱難辛苦《かんなんしんく》して修業しました。それはずいぶん苦しみましたよ。雪の降る夜、比叡山《ひえいざん》から、三里半ある六角堂まで百夜も夜参りをして帰り帰りした事もありました。しかし一つの善根を積めば、十の悪業《あくごう》がふえて来ました。ちょうど、賽《さい》の河原《かわら》に、童子が石を積んでも積んでも鬼が来て覆《くつがえ》すようなものでした。私の心の内にはびこる悪は、私に地獄のある事をますます明らかに証《あか
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