れを善い人と思うか、悪い人と思うかと真顔でおっしゃいましたから、私はあなたのように心の善《よ》い人は知りませんと言ったら、ほんとうにそう思うかとおっしゃるから、あなたにはお世辞は申しませんと言ったら、涙ぐみあそばしてね。かえで、私はほんとうは善い人間なのだよ。皆が悪口を言うような人間ではないよ、私を悪く思ってくれるなとおっしゃいました。ちょうどその日お座敷で私に無理にお酒を飲ませたり、いたずらをなすった夜でしたのよ。
浅香 つきあうだけ深みの出る人でしたよ。私はあのように手ごたえのあるお客にぶつかった事はありませんでした。
かえで あなたと善鸞様とはいったいどんな仲だったのですの。私は今でもよくわからなくてよ。
浅香 (さびしく笑う)それはあなたと唯円様とみたようなのとは違いますよ。お互いに年を取っていますから。
かえで だってどちらも愛していらしたのでしょう。
浅香 それは愛していましたとも。
かえで ではどうしてあんなにして別れてしまったの。
浅香 それが人生のさびしいところなのよ。私もあのかたもそのようにできるようなさびしい心になってるのよ。今のあなたにはわかりませんけれど。
かえで そうお。でもいつも思い出すでしょう。
浅香 思い出しますとも。
かえで 今度はいつ京にいらっしゃるの。
浅香 いつだかわかりません。
かえで さびしいでしょう。
浅香 (涙ぐむ)ねえさんはそのさびしさにもうなれているのよ。
かえで 私はなんだか心細くなるわ。
仲居 (登場)かえでさん、お花、そのままですぐ来てください。
かえで あゝ、いやだ。今夜だけは出たくない。お座敷などへ出るような気分ではないわ。
浅香 でも辛抱して出ていらっしゃい。さっきの今ですから出ないとおかあ[#「かあ」に傍点]さんがそれこそたいへんよ。
かえで しょうがないねえ。(鏡台の前にすわり、ちょっと顔をなおしてすぐ立ち上がる)ではちょっと。
浅香 (火鉢《ひばち》のそばにもどる)お早くお帰り。
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かえで退場。しばらく沈黙。
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浅香 (火箸で灰をならしつつ)あゝ、火もいつのまにやら消えたそうな。(ため息をつく)私の心はちょうどこの灰のようなものだ。もう若い情熱もなくなった。かえでさんのような恋はとてもできない。自分の不幸を泣く涙もかれて来た。訴える心もだんだん無くなって行く。なんの望みもない。と言って死ぬる事もできない。ただ習慣《しきたり》でなんの気乗りもなしにして来た事をつづけて行くだけだ。何が残っている、何が? ただ苦痛を忍び受ける心と、老いと死と、そしてそのさきは……あゝ何もわからない。あんまりさびしすぎる。(つきふす、泣く、間、顔をあげてあたりをぼんやり見まわす)たれかがたすけてくれそうなものだ。ほんとうにたれかが……
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[#地から4字上げ]――幕――
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第五幕
第一場
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本堂
大きな円柱がたくさん立っている大広間。正面に仏壇。左右に古雅な絵模様ある襖《ふすま》。灯盞《とうさん》にお灯明が燃えている。回り廊下。庫裏《くり》と奥院とに通ず。横手の廊下に鐘が釣《つ》ってある。
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人物 唯円《ゆいえん》 僧数人 小僧一人
時 晩《おそ》い春の夕方 第四幕より一月後
僧六人、仏壇の前に座して晩のお勤めの読経《どきょう》をしている。もはや終わりに近づいている。
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僧一同 (合唱)釈迦牟尼仏能為甚難希有之事《しゃかむにぶつのういじんなんけうしじ》。能於裟婆国土五濁悪世《のうおしゃばこくどごじょくあくせ》、劫濁見濁煩悩濁衆生濁命濁中得阿耨多羅三藐三菩提《こうじょくけんじょくぼんのうじょくしゅじょうじょくみょうじょくちゅうとくあのくたらさんみゃくさんぼだい》。為諸衆生説是一切世間難信之法《いしょしゅじょうせつぜいっさいせけんなんしんしほう》。舎利弗《しゃりほつ》。当知我於五濁悪世行此難事得阿耨多羅三藐三菩提為一切世間説之難信之法是為甚難仏説此経已舎利弗及諸比丘一切世間天人阿修羅等聞仏所説歓喜信受作礼而去《とうちがおごじょくあくせいぎょうしなんじとくあのくたらさんみゃくさんぼだいいいっさいせけんせつしなんしんしほうぜいじんなんぶつせつしきょういしゃりほつぎゅうしょびくいっさいせけんてんにんあしゅらとうもんぶつしょせつかんぎしんじゅさらいにこ》。(鐘)仏説阿弥陀経《ぶつせつあみだきょう》。(鐘)
僧一 なむあみだぶつ。
僧一同 なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。
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