ないのでしょうね。
親鸞 「若さ」のつくり出す間違いがたくさんあるね。それがだんだんと眼《め》があかるくなって人生の真の姿が見えるようになるのだよ。しかし若い時には若い心で生きて行くより無いのだ。若さを振りかざして運命に向かうのだよ。純な青年時代を過ごさない人は深い老年期を持つ事もできないのだ。
唯円 私には人生はたのしい事や悲しい事のいっぱいある不思議な、幕の向こうの国のような気がいたします。
親鸞 そうだろうとも。
唯円 虫が鳴いていますね。(耳を傾ける)
親鸞 まるで降るようだね。
唯円 私はあの声を聞くといつも国の事が思われますの。私の家の裏の草むらでは秋になると虫がしきりに鳴きました。私のなくなった母は、よく私をおぶって裏口の畑に出ました。そしてあのこおろぎの鳴くのは、「襤褸《つづれ》針《さ》せつづれさせ」と言って鳴くのだ、貧しいものはあの声を聞いて冬の着物の用意をするのだと言って聞かせました。私はその時さびしいような、寒さの近づくような変に心細い気がしたものです。それからはあのこおろぎの声を聞くと母の事を思います。
親鸞 お兼さんがなくなってから何年になるかね。
唯円 ことしの冬が七回忌でございます。
親鸞 ほんに惜しい事をした。あんないいおかあさんはめずらしかった。
唯円 母は私をどんなに愛してくれたでしょう。私は子供の時の思い出をたどるたびに母の愛をしみじみと感じます。
親鸞 左衛門殿からおたよりがありましたか。
唯円 はい、達者で暮らしているそうです。母がなくなってからはさびしくていけないそうです。人生の無常を感じる、ひたすらに墨染めの衣がなつかしいと言って来ました。そして母の七回忌を機に出家したい、私の家を寺にしようと思っている。本尊はあの、あなたから、かたみにいただいた片手の欠けた仏像をまつるつもりだ、と言ってよこしました。
親鸞 とうとう出家する気になったかねえ。
唯円 長い間の願いだったのですからね。寺の名を枕石寺《ちんしゃくじ》とつけるのですって。それはあなたがあの雪の降る夜、石を枕《まくら》にして門口にお寝《やす》みになったのにちなむのですって。それからお師匠様に法名をつけてもらってくれと言っていました。
親鸞 あの人もずいぶん苦しまれたからね。
唯円 私は父が恋しゅうございます。もうずいぶん長く会わないのですから。
親鸞 私はあの雪の朝に別れたきりお目にかからないのだ。あの夜の事は忘れられない。
唯円 すごいような吹雪《ふぶき》の夜でしたっけね。私は子供心にもはっきりと覚えています。
親鸞 お前はまだ稚《おさ》ない童子だったがな。あのころから少しからだが弱いと言っておかあさんは案じていらしたっけ。
唯円 あの時あなたが門口のところで、もうお別れのときに、私を衣のなかに抱いてくだすったのを私は今でもよく覚えています。
親鸞 もう会えるか会えないかもわからずに、どこともなしに立ち去ったのだった。
唯円 師と弟子《でし》との契りを結ぶようになろうとは夢にも思いませんでした。
親鸞 縁が深かったのだね。
唯円 (しばらく沈黙、やがて思い入れたように)お師匠様、あなたは私を愛してくださいますか。
親鸞 妙な事をきくね。お前どうお思いかな。
唯円 愛してくださいます。(急に涙をこぼす)私はもったいないほどでございます。私はあなたの御恩は一生忘れません。私はあなたのためならなんでもいたします。私は死んでもいといません。(すすり泣く)
親鸞 (唯円の肩に手を置く)どうした。唯円。なんでそんなに感動するのだ。
唯円 私はあなたの愛にすがって頼みます。どうぞ善鸞様をゆるしてあげてください。善鸞様と会ってください。
親鸞 …………
唯円 私はたまりません。善鸞様は善《よ》いかたです。不幸なかたです。だれがあのかたを憎む事ができるものですか。皆が悪いのです。世の中が不調和なのです。皆が寄ってたかってあのかたをあのようにしたのです。あのかたはあなたを愛していらっしゃいます。どうぞ会ってあげてください。ゆるしてあげてください。私がすぐに行ってお連れ申します。どんなにお喜びなさるか知れません。
親鸞 (苦痛を制したる落ち付きにて)お前は善鸞と会いましたか。
唯円 私は会いました。きょう善鸞様からお使いが来て私はあなたに内緒で会いに行きました。私はうそを申しました。私は木屋町に用たしに行くと言ったのは偽りです。善鸞様は木屋町にいられます。私はうそを申しました。
親鸞 善鸞はどうしていましたか。
唯円 (思い切って)私が行った時には遊女や太鼓持ちとお酒を飲んでいられました。
親鸞 そのような席にお前を呼んだのか。純な、幼いお前を。放縦《ほうしょう》な人は小さいものをつまずかすことをおそれないのだ。
唯円 でも善鸞様はこのような所
前へ 次へ
全69ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング