を見せてすまないとおっしゃいました。また仲居が私に酒をすすめた時に、この人にはすすめてやってくれるなとおっしゃいました。また自分は汚れているが純潔な人を尊敬するとおっしゃいました。善鸞様はいつもの自分のしているありのままのところへ私をお呼びなすったのです。見せつけるためではなく、自分を偽らないためだったのです。
親鸞 善鸞はなんのためにお前を呼び寄せたのだろう。
唯円 さびしいのですよ。私と会って話したかったのですって。私のような者をでも慰めにお呼びなさらなくてはならないとはあのかたもよほど孤独なかたです。まったくさびしそうでした。杯やお膳《ぜん》や三味線などの狼藉《ろうぜき》としたなかにすわって、酔いのさめかけた善鸞様は実に不幸そうに見えました。私は一人の人間があのようにさびしそうにしていたのを見た事はこれまでありませんでした。
親鸞 人生のさびしさは酒や女で癒《いや》されるような浅いものではないからな。多くの弱い人はさびしい時に酒と女に行く。そしてますますさびしくされる。魂を荒される。不自然な、険悪な、わるい[#「わるい」に傍点]心のありさまに陥る。それは無理はないが、本道ではない。どこかに自欺と回避とごまかしとがある。強い人はそのさびしさを抱きしめて生きて行かねばならぬ。もしそのさびしさが人間の運命ならば、そのさびしさを受け取らねばならぬ。そのさびしさを内容として生活を立てねばならぬ。宗教生活とはそのような生活の事を言うのだ。耽溺《たんでき》と信心との別れ道はきわどいところにある。まっすぐに行くのと、ごまかすのとの相違だ。
唯円 善鸞様も自分の生活に自信を持ってしていられるわけではないのです。それでよけいに不幸なのです。今のあのかたのお心持ちでは、ああして暮らしなさるよりないのだろうと思います。私は善鸞様の苦しいお話を聞いて圧《お》しつけられるような気がいたしました。なんと言って慰めていいかわからないで、同悲の情に胸を打たれるばかりでした。私は善鸞様を責める気など少しも起こす事はできませんでした。私はただ私の前に痛ましく苦しんでいる一人の人間を見ました。そしてその人を傷つけた責めをだれが背負うべきかを考えて不合理な感じばかりに先立たれました。私は帰る道で考えると眩暈《めまい》がするような気がしました。だって何一つ私の頭では得心が行かないのですもの。私はすべての考えの混乱の間に、ただはっきりとわかっている一つの事ばかり思いつめて帰りました。それは善鸞様はゆるされなければならないという事でした。
親鸞 あれもかわいそうなやつとは私も思うている。あれにも数々の弁解がある事だろう。だがあれは他人の運命を損《そこの》うたのだからな。一人の可憐《かれん》な女は死んだ。一人の善良な青年の心は一生涯《いっしょうがい》破れてしまった。幾つかの家族の間には平和が失われた。それが皆あれの弱かったせいなのだからな。その報いをうけているのだよ。
唯円 でもあのかたばかりが悪いのではありません。あのかたの一生の運命を傷つけたのも社会の不自然な意志の責めに帰すべきものと私は思います。恋している男と女とを添わせるのは天の法則です。その法則に反逆したのは社会の罪と思います。あのかたばかり責めるのはひどすぎます。
親鸞 社会もその報いを受けているのだよ。世の中の不調和は、そのようにして、人間が互いに傷つけ合うては報いを受け合うところから生ずるのだ。それが遠《とお》うい遠うい昔から、傷つけつ傷つけられつして積み重ねて来た「業《ごう》」が錯雑しているのだからな。そのもつれた糸の結び目にぽつり一個の生をうけているのが私たちなのだもの、不調和な運命を生まれながらに負わされているのだ。その上私たちが作る罪や過失の報いはいつまでも子孫の末に伝わって消えないのだ。
唯円 私たちの存在は実に険悪なものですね。
親鸞 仏様がましまさぬならば、私はだれよりも先にだれよりもはげしく、私たちの存在を呪《のろ》うであろう。だが仏様の恩寵《おんちょう》はこの世に禍悪があればあるだけ深く感じられる。世界の調和はいっそう複雑な微妙なものになる。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》はいっさいの業《ごう》のもつれを解くのだ。
唯円 その南無阿弥陀仏を信ずる事ができないと善鸞様はおっしゃるのです。
親鸞 なぜにな。
唯円 私はその理由を聞いてどんなに感動したでしょう。善鸞様は御自分がそれに相当しないほど強く自分を責めていられるのです。自分のようにきたない罪を犯しながら、このまま助かることを願うほど自分はあつかましくなっていないと言われました。「せめてそれは私の良心です、私の誇りです」とおっしゃった時には涙が光っていました。父のように清い人間には念仏はふさわしいが、私のような汚れたものにはむしろ難行苦
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