いるというのは、生命の神秘に対する直観力があるからであって、モダン趣味も、神秘感覚もともに、上っすべりでないことの証拠になるからである。
個人的の例にわたるが、本誌の読者がたぶん知っているはずの、K・O女史や、K・I夫人などは、その趣味も、服装も、生活様式もはなはだモダンであるが、しかも仏教の信仰のある女性である。そしてその人品はどう見ても上っすべりしていないのである。
しかしもとより生活の趣味がモダンでなくてはならぬというのではない。そういう生活様式の新旧に宗教が障げられるものでないことをいうのにすぎない。
信仰の中心はそういう様式上の問題などにあるのではなく、安心立命の問題にあるのだ。自分のうけているこの一個のいのち[#「いのち」に傍点]がこの宇宙とひとつに帰して、もはや生きるもよし、死ぬるもよしという心境に落ち着くところにあるのだ。それは人間にとって、女にとっても男にとっても第一義の問題である。宗教がなくてもいいということが理不尽なのは、この第一義がなくてもいいということになるからだ。この第一義が決定することを「生死をはなれる」というのだ。
この第一義がきまると、いろいろ
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