な心の働きがその心境からおのずと出てくる。目は英知に輝き、心気は澄んでくる。いろいろな欲望や、悩みや、争いはありながらも、それに即して、直ちに静かさがあるのである。これを「至徳の風静かに衆禍の波転ず」と親鸞はいった。「生死即涅槃」といって、これが大涅槃である。涅槃に達しても、男子は男子であり、女子は女子である。女性はあくまで女性としての天真爛漫であって、男性らしくならなければ、中性になるのでもない。女性としての心霊の美しさがくまなく発揮されるのである。
 しかしながら涅槃の境地に直ちに達しられるものではない。それにはいろいろな人生の歩みと、心境の遍歴とを経ねばならぬ。信仰を求めつつ、現在の生活に真面目で、熱心で、正直であれば、次第にそのさとり[#「さとり」に傍点]の境地に近づいて行くのである。それ故信仰の女性というのは、普通の場合、信仰の求道者の女性という意味であって、またそれでいいのである。しかし初めから信仰というものを古臭いなどと侮って、求める気がないのでは妙智のひらける縁がない。
 それが独りよがりの傲慢になってしまうか、中途半端な安逸に満足してしまうかである。
 処女は処女とし
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