Bかくのごとく強烈に生に執着するわれらにとっては死の本能を説くメチニコフの人生観はなんの慰安にもならぬのである。かくのごとくしてわれらは自然の大きな力の前に詮方《せんかた》なく蹲いて行く。われらの「ウォルレン」の反抗を嘲笑して、自然は生死に関しては「ザイン」そのままを傲然として主張するのだ。またわれらの生も一面から見れば一つの「ザイン」である。刹那主義の立脚地はここにあるかもしれない。混沌の境に彷徨する私はともすればこうした生活に引きさらわれやすいけれど、涙無くしてみすみす引きさらわれてゆくことがどうしてできよう。生死の問題は今のところいかんともすることはできない。ただ発作的恐怖に戦慄するのみである。しかし深く考えてみれば要するに生きんがための死ではあるまいか。死に対する恐怖の本能よりも、よく生きんとする欲求的衝動の方が強烈である。人生の中核はいかにしてもよく生きんとする意志あるいは衝動、さらに言を逞《たくま》しくすれば一種の自然力であるらしい。私はショウペンハウエルと共にこの真理を信仰し、謳歌し、主張したい。倦怠の裡には寂愁があり、勝利の裏には悲哀がある。一つは生を欲するための死に対する恐怖であり、他は生の充実を感じたための死に対する思慕ではあるまいか。
 われらは人間の有する性情を「何所《いずこ》より」「何処《いずこ》へ」「何のために」「かくあるべし」と詮索するよりも「何である」と内省することこそ緊要である。自己の真の奥底より湧き起こる声に傾聴して、自己の真の性情に立脚するところ、そこに充実せる生は開拓さるるであろう。ただ遁《のが》れがたきは個性の差異である。個性こそは自我の自我たる所以《ゆえん》の尊き本質である。普汎的自我の白帛を特殊的自我の色彩をもって染めねばならない。この個性に対して忠実に働き、個性の眼鏡を透して、そのままを認識し、情感し、意欲する心的態度をしも真面目と呼びたい。
 自然主義は一つの過渡期の思想であったし、現にある。私はけっしてこれに満足することはできないがまた多くを学び得たのである。われらがまさに到らんとする幻滅とともに、眠れる自覚を唆《そそ》り起こして、われらを偉大なる自然の前に引きいだし、実生活に対する自然の権威、自然に対する主観の地位等を痛感せしめた。しかしわれらは自然の器械力の前にひれ伏して現実そのままの生活に執着して大なる価値を
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