@りいださんには適しなかった。自然の足下に恐縮して心を形の質とせんには謙虚でなかった。ただ神経の鋭敏と官能の豊富とに微かな気息を洩らして、感情生活の侵蝕に甘んずるにはあまりに真率であった。現実生活をしていっそうよきものたらしめんがために自然力の偉大を悟り、生の悲痛を感じ、神経のデリカシイと官能のあでやかさとを獲得したのである。私はこの意味において自然主義存在の理由と価値とを認容する。自然主義を眺めた私の心の目はショウペンハウエルの観念主義の色調を帯びて、ここに一種の特殊な見方に陥ったのである。「世界は吾人の観念にほかならない。主観を離れて客観は無い。自然は主観の制約の下にある」といった命題はいかに私に心強く響いたであろう。しかしまた裏へ回って「見ゆる世界の本体は意欲である。世界は意志の鏡であり、またその争闘場裡である」と聞いたとき慄然として戦《おのの》いたのである。しかしまた本体界の意志を無差別、渾一体のものとして認めた彼はなんとなく私の心の動揺を静めるようにも思われた。かくて最後に残った者は自然を前にしてよく生きたいという一事であった。
 享楽主義者たるをも、イリュウジョンに没頭し得るロマンチシストたるをも得なかった私には、いかにせばよき生が得らるるかが緊要な問題であり、また日々の空疎なる実生活がやるせなき苦悶であらねばならなかったし、現にあるのである。私は考えた。悶えた。しこうしてどうしても人間の根本性情の発露にあらずんばよき生は得られないと思った。人性の曇らさるるところ、そこに憂鬱があり、倦怠がある。その発露の障害さるるところ、そこに悲哀があり、寂愁がある。人性の燦《さん》として輝くところ、そこに幸福があり、悦楽がある。人性の光輝を発揚せしめんとするところ、そこに努力があり、希望がある。人性の内底に鏗鏘《こうそう》の音を傾聴するところ、そこに漲《みなぎ》る歓喜の声と共に詩は生まれ、芸術は育つ。かるがゆえにわれらは内面生活の貧弱と主観の空疎とを恐れねばならない。外界に対する感受性の麻痺を厭わねばならない。われらはいたずらに自然の前にひれ伏して恐れ縮んではならない。深き主観の奥底より、暖かき息を吐き出して自然を柔かに包まねばならない。とはいうものの顧みればわれらの主観のいかに空疎に外界のいかに雑駁なるよ。この中に処して蛆虫《うじむし》のごとく喘ぎも掻《が》くのがわ
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