机に倚《よ》りかかってぼんやりしてると、過ぎにし旅行のことが影絵のごとく、おぼろに思い浮かべられて、淡い淡い悲哀を覚ゆるのである。恋しき友よ、君はなんという私にとって無くてはならない友であろう。私の覚ゆる悲哀は一には君のために覚ゆる悲哀である。春雨に濡るる若草のごとくに甘い、懐かしい、潤うた悲哀である。君無くば乾《ひ》からびた味の無い砂地のごとき悲哀になっちまう。
 お互いに自重しようね。耽溺、刹那主義、pleasure−hunter なんという嫌な響きであろう。思索だ! 思索だ! 永遠にして崇高なものをぐっと握り締めるまでは、私共のなすべきすべてのことはただ思索あるのみである。

 今日は朝っぱらから心細いことのみに出っくわす。例の瘰癧《るいれき》の男と学校で会って僕が彼に思索せぬことを詰《なじ》ったら彼は次のごとく答えた。
「私は十年経てば死ぬと医者から宣告せられてるのだぜ。過去は暗黒だ。未来は謎だ。短い命を誰がくだらぬ思索なんかに費すものか。私にはそんな余裕はない。私には『生きる』ということが仕事の全部だ。なるほど生きているなと思うには強い、濃《こ》い刺激が要る。それには歓楽に如《し》く者は無い。鼓の響き、肉の香、白い腕、紫の帯、これらは私の欠くべからざる生活品だ。これらが無くては寂しくて堪《たま》らぬ。私の頸からは切っても切っても汚い、黄色な膿《うみ》がどぶどぶ出る。君らは鏡に向かって自分の強く美しき肉体を賛美することは知ってても、肺病患者が人知れず痰《たん》を吐いて、混血の少ないのにほっと息を吐くときの苦心は知るまい。私は死に面接してる。君らは死を弄んでる。死は私には事実だが君らには空想だ。『自然』に反抗するとき死は恐怖だが、降参してしまえば慰安だ。君らは早|叶《かな》わじと覚悟して、獅子の腕の下るのを待ってる小羊の心がぞんがい安静なのを知らないのだ」ざっとこんな意味のことを嘲るように、投げ出すように言った。私はなんだか私らの思索の前途がおぼつかなくなった。帰宅すると机の上に君の手紙が置いてある。それを読むとまたいっそうのこと心細くなった。君のは瘰癧のとは形式は異なるが、やっぱり「自己存在の確認」を訴えてるからだ。君がオブスキュアな生活が味気なく、ポピュラリチーを欲求するのはあえて無理とはいわない。ことに君は花やかな境遇ばかり経てきたのだからなおさらだ。し
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