サして何人をも同時に愛することのできる心である。甲を呪わなければ乙を愛することのできない愛は隣人の愛ではない。愛とは万人を祝福する心である。みんなみんな幸福に暮らしてくださいと祈る心持ちである。甲を祝して、乙を詛《のろ》うならばその人の人格は「愛」なる徳を所有してはいない。すなわちその人が甲を祝することは偶然にすぎなくなる。恋の女はしばしば「あの人はいやよ」ということによって恋人への愛を証《あかし》しようとする。けれどそれは女が自己の興味で恋人を好んでいるということを証する。換言すればその女は恋人を嫌っているのとなんら「性格上」の相違のないことを証する。私はかくいわれれば心細くなる。そして女にいいたい。「あなたは私が嫌いでも愛してください」と。女が「あなたは好きよ」というときに淋しくない人は愛を深く知ってる人ではない。いかに極悪なる無頼漢も恋している女や自分の子は大切にする。けれどもその無頼漢の性格は愛ではない。神様は裁きたまうであろう。「汝には愛の Tugend なし」と。隣人の愛はそれゆえに本能的な、はげしさと熱とを初めより持つことはできない。それはわれらにはまことに螢火のごとくかすかなものである。それは弱くて、稀《まれ》に起こり、苦しきものである。けれど一度この愛を自覚したるものはこれを忘れることはできない。小さいけれど輝き、濡れている。天を向いている。われらの心のなかに君たるの品格を備えて臨んでいる。私はこの愛の真理であることを疑うことはできない。まことに古《いにし》えの敬虔なる説教者が愛は本来人間のものではなく、神より来たりしもの、浄《きよ》めの聖霊であるというたのもまことと思われるほど私の心のなかの他のものより際だって輝いて見える。私の心のなかの生来の要求にそむきながら、僅かな領分しか占めないにもかかわらず、そしてその要求に従うことは限りなき苦痛となるにもかかわらず、なおかつ侵しがたき命令的要素を持てる愛の不思議なことよ! 私は愛することはなかなかできないけれど私は愛せねばならない。それは唯一の善いことである。徳の泉である。天に昇る道である。生物は永い永い間互いに食い合ってきた。みずから何をなしているかをも知らずに互いに犯しあってきた。けれどいつしか自己の姿をみずから認めることができるようになった。ショウペンハウエルの哲学においても意志がいかにして認識す
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