驍ノ至りしかを説明することができないごとくにまことに天来の恵みにも似たる認識ではないか。人間はみずからの醜き、あさましき相を認めた。そしてそのときから面を天へと向けた。けれど私らは認識するに至りて以来二元に苦しんでいる。自己を形成する要素が二つあることを感ずる。そしてその一つをば、それは私らの主なる部分を占め、それに従うことは容易さと甘さを持っているにもかかわらず、それを悪しと見る。そしてかのトルストイのごとくに二つのものの戦いを一生涯つづけることは自覚せるものの一生のさだめとなっている。霊と肉との衝突、これはいい古された言葉である。けれど真実にこの衝突を痛切に、はげしく、堪えがたきまでに煩わしく、またついに人間の不可避の運命と感ずるほどに不断に経験するようになるのはわれら近代の教養を受けたるものにおいては、多くは道徳的回転によって霊性が目醒めた後である。近代人は霊肉の一致のために努力していまだ成就しない。もし岩野氏のごとく物心の相対的存在を霊肉の一致と称するならば霊肉一致説は成立する。すなわち肉体をはなれて精神はない、一つの精神作用には必ず肉体的表現がある。外より見れば生殖器、内より見れば性欲、この両者は一如である。けれども道徳家の感ずる霊肉の背反とはこの唯物論と唯心論との認識論的の背反ではない。精神作用のなかの価値意識の背反である。例をあぐれば、性欲が肉交となる、それは何の不思議もない、その意味の霊肉一致ではなく、性欲と性欲を悪しと見る心との衝突である。かかる意味の霊肉の衝突はけっして調和されてはいない。そして私たちの最大の苦痛である。愛されないようにする力が私たちの生命のなかにある。そして愛を善しとほめる心がある。その二つのものの乖反《かいはん》はけっして一致してはいない。恋愛や骨肉の愛のごとく意志より発する愛のときはこの乖反はない。けれど認識より発する愛――隣人の愛、まことの愛のときにわれらは峻《けわ》しきこの対立を感ぜずにはいられなくなる。そこに愛の十字架がある。私は愛を証するものは十字架のみであると思う。十字架を背負わずに愛することはけっしてできない。隣人の愛をもって何人かを愛してみよ、そこに必ず十字架が建つ。自分の欲しい何ものかを犠牲にしなければならない。ある人を自分は真実に愛しているか、いなかを知るには自分はその人に対していかなる犠牲を払ったかを省み
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