ヤよりも互いに撲《なぐ》り合った二人の間に隣人の愛の起こるごとくに、両者の切なる感情をもってしたる接触が愛を生んだのである。しかし、その隣人の愛は恋や骨肉の愛の本質ではない。男性は愛の動機からではなくとも、はげしく、盲目的に女性を恋することができる。そしてその占有の欲は恋人を殺さしむることさえある。それは戦いのありさまにさも似ている。それが恋の本来の相である。母親が幼児を抱き、撫《な》で、接吻するときにはほとんど肉体的興味からの動作に酷似している。処女が男性に対して持てるごとき肉的魅力を幼児は母親に対して供えている。そのとき母親の問題はほとんど幼児の運命ではなくて、自己の興味――いな自己もあずからざる自然力の興味である。ここに私の挙げたのは著しき例である。けれどもたしかに母子の愛と男女の恋との本来の相を語っている。愛は「生きんとする意志」がみずからを認識し嫌悪するところより起こる。恋人は恋のエゴイズムを、母は骨肉の愛のエゴイズムを自覚したるときより生ずる、自主的、犠牲的作用である。私は恋を失うて恋人へのエゴイズム恋人の母のエゴイズム(恋人に対する)とを痛切に感じて一生忘れることのできない肝銘を得た。そしてそのときから愛はキリストの「隣人の愛」、神の前に立って互いに隣りを愛する愛のほかにないことを感ずるようになった。私は女から「あなたを愛する」といわれるときは少しも愛されている気がしない。また母が私を撫でるように愛するとき私はかえって一種の Bosheit を感ずる。なんとなれば母が他人の子供に対する態度を見るときに、私の愛されてるのは偶然にすぎないと思うからである。女が愛する、というのは私の運命を愛するのではなく、私との接触を興味とすることを知るからである。私が恋に熱狂しているとき私は最もエゴイスチッシュであった。母や、友や、妹は私の恋のための材料にすぎなかった。そして私はつねに言っていた。「私は愛を生きている」「善をなしている」と。私はその間まことに悪い人間であった。今にして思えばそのとき私はその恋人一人をさえ真実に愛していたのではない。一つの自然力に奉仕していたのである。見よ、恋人の運命は傷つけられた。私の運命も傷ついた。そして、恋は亡びてしまったのではないか! 私は思う、愛とは他人の運命を自己の興味とすることである。他人の運命を傷つけることをおそれる心である。
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