ニもある。あなたがそうする心持ちはしみじみと私の胸に解《わか》る。私はモラーリッシュなできごとにいちばん興奮し涙を誘われるものである。それにもかかわらず、あなたの演説を聞いて私は握手を求めた手を叩き返されたような感に打たれた。
 Y君、あなたの善の観念はあまりに常識的である。あまりに外的で既定的で社会的でかつ固定している。しかのみならず、その範囲があまりに狭い。あなたの持ってる善人の範疇《はんちゅう》からは私などはただちにはみ出されそうである。みずから Moralist をもって任じてる私を容れることができない。私ははなはだ服しにくい。元来、あなたの思想全体が範疇的なのである。たとえばあなたの告別の辞ははなはだよく昨年のと似ている。さらに一昨年のと似ている。何ゆえに歴代の総代は毎年同じように美しい感想を述べて本校を去られるのであろう。ときに一人くらいは懐疑や不安や不満を残して本校を去る人がありそうなものではないか。総代が虚言を吐いたのか。そうではあるまい。おそらく彼らは真実の感想を述べたのであろう。ただ彼らは物を感ずるのに赤裸々な自由な心をもってしない。ある既定的な型をもって感ずる。そして自分の感想が全体として型に入ってることを自覚しない。それだから毎年同じ感想が生ずるのである。放たれた、純な心で物象を感得することは容易なことではない。それには思索の練磨を要する。型を離れて純粋に事象を経験せんとする努力を思索というのである。囚《とら》われずに純粋に経験することは、思惟せずに偶然に物を感ずることではない。それはF・S君が「神の発見の過程」のなかに論じているように、思惟の凝視である。できるだけ注意して思惟することにほかならないのである。あなたなどは、思惟はものの真相を示すものではない、純なる感情で直感するのが真理であると思われるかもしれない。したがって思索家は囚われた物の感じ方をするものだ、知識に囚われてると思われるかもしれない。しかし思索せずにただ偶然に感情のままに事象を感受するならば、それはかえって型に篏《はま》って経験を受け取ることになるのである。かくて得られたる内容は真理でなくて常識である。私らが型を離れて純粋に自由に物象を感得するためには、思索せねばならないのである。あなたが思索を重んじられないために、あなたの思想は一般に型にはまっている。あなたの善の観念など
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