ネたと共に「生」というありがたき大事実を信仰したい。それからあなたと私とがともに生き(mitleben)てることを信仰したい。それから後初めて私の言いたいことをあなたに述べさせていただきたい。他人の生活態度と自分の生活態度と異なっているとき私らはどうすればいいであろうか。これは対人関係について神経質な私にとってはかなり煩わしい問題である。ひと口に異なった生活態度といってもその異なり方にはいろいろある。私はもとより個性の多様性を認めるものであるから、たとい生活態度は異なっていても、その態度がその人の本然の真実より、すなわち個性の必然より生ずるものと信じらるるならば、その態度を理解し、尊敬することができる。真実の友情はここに根底を置くべきものであろう。またその態度が土台から人格的の憎悪と軽蔑とを感じさせるようなものであるならば、頭から征服的の態度に出でてもいいかもしれない。けれども彼我の間には一脈の呼吸が隠々として通いながらも、その人の認識が深刻でないために、概念的の錯誤から、外面的には著しく異なった――というよりも相そむかねばならぬほどの態度が生じているのだと自分には思われるときにはどうすればいいであろうか。このとき自分の生活を乱さないように守りながら、黙って自分の道を歩いて行ける人はいい。私にそれができるならば、それほど他人の存在に無関心でいられたならば、私の内部動乱はいかほど少なくて、安易な心を持して行けるかしれないのである。けれどもすでにそれができないとすればどうすればいいか。私には皮肉はいえない。どうしても率直にいうよりほかはない。私はあなたと私とをそういう関係において見いだすものである。だからなにとぞ私があなたの内生活に深く立ち入って手きびしくいうことを許していただきたい。
 Y君、私は自分を Moralist だと信じている。私は固形体の状態から灼熱、鎔解して流動体となり、さらに光を発するほどの精醇な Morality というものに向かって純なる憧憬を持つものである。私はこのモーラリチーというものに対してきわめて広い意識を持つものであって、芸術の根底を支えるものもこの道徳性だと思ってる。このことは幾多の芸術家の反対あるにもかかわらず、私はそう信じているのであって、トルストイなどのいう意味よりも、もっと芸術的な意味で私はいうのである。私はいかなる人であっても
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