Iなる肯定あるいは否定がしたい。
こう思って私は飢えたるもののごとく女を探し求めた。そして見よ。ついに私は探しあてた。
下
ああ私は恋をしてるんだ。これだけ書いたとき涙が出てしかたがなかった。私は恋のためには死んでもかまわない。私は初めから死を覚悟して恋したのだ。私はこれから書き方を変えなければならぬような気がする。なぜならば私が女性に対して用意していた芸術と哲学との理論は、一度私が恋してからなんだか役に立たなくなったように思われるからである。私はじつに哲学も芸術も放擲して恋愛に盲進する。私に恋愛を暗示したものは私の哲学と芸術であったに相違ない。しかしながら私の恋愛はその哲学と芸術とに支えられて初めて価値と権威とを保ち得るのではない。今の私にとって恋愛は独立自全にしてそれみずからただちに価値の本体である。それみずから自全の姿において存在し成長することができるのである。私の形而上学上の恋愛論はそれが私に恋愛を暗示するまで、その点において価値があったのである。一たび私が恋に落ちたとき、恋愛は独立に自己の価値を獲得したのである。私は私の恋愛論の完全をいかにして保証することができよう。私にはその自信はない。もし私の恋愛が哲学の上に立ちて初めて価値あるものであるならば、もしその哲学が崩壊したとき恋愛の価値もともに滅びなければならない。かくのごときことは私の堪え得ざる、また信じ得ざることである。私はいかにしても恋愛の自全と独立とを信仰せずにはいられない。たとい私の恋愛論を破砕する人があろうとも、それは私の恋愛の価値とは没交渉なことである。恋愛は私の全部生命を内より直接に力学的に纏めているのである。これを迷信というならば恋愛は私の生活の最大の迷信である。誰か迷信なくして生き得るものがあろう。偉大なる生活には偉大なる迷信がなければならない。私はこの頃つくづく思い出した。自分で哲学の体系を立てて、その体系にみずから頷《うなず》いて、それに則《のっと》って充実徹底せる生活を求めることができるであろうか。充実せる生活は生活の価値がただちに内より直観せらるるものでなければならないのではあるまいか。かくのごとき生活の骨子たるものは哲学ではない。芸術でもない。ただ生活の迷信である。この迷信に支えられてこそ初めて哲学と芸術とは価値と権威とを保ち得るのである。この迷信の肯定さ
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