驍驍ニころ、そこに歓喜があり、悦楽があり、生命の熱と光と力とがある。この迷信の否定さるるところ、そこに悲哀があり、苦痛があり、ついには死があるばかりである。
私は恋愛を迷信する。この迷信とともに生きともに滅びたい。この迷信の滅びるとき私は自滅するほかはない。ああ迷信か死か。真に生きんとするものはこの両者の一を肯定することに怯懦《きょうだ》であってはならない。
私はただなぜとも知らず私がかくまで熱烈にまた単純に恋愛に没入し得る権利があると感ずるのである。私は私が恋愛の天才であることを自覚した。私には恋は一本道である。私はどこまでもこの一本道を離れずに進まなければならない。私は勇んで恋愛のために殉じたい。よしやそれが身の破滅であろうとも私はそれによって祝福さるるに相違ない。
恋は遊びでもなく楽しみでもない、生命のやみがたき要求であり、燃焼である。生命は宇宙の絶対の実在であり、恋愛は生命の最高の顕彰である。哲学と芸術と宗教とを打して一団となせる焔の迸発である。生命(霊と肉)と生命とが抱擁して絶対なる、原始なる、常住なる、自然なる実在の中に没入せんとする心である。神とならんとする意志である。
私らは恋愛というとき甘い快楽などは思わない。ただちに苦痛を連想する。宗教を連想する。難行苦行を思う。順礼を思う。凝りたる雪の上を踏む素足のままの日参を思う。丑《うし》の時参りの陰森なる灯の色を思う。さてはあの釣鐘にとぐろを捲きたる蛇の執着を思わずにはいられない。
恋愛の究極は宗教でなければならない。これ恋の最も高められたる状態である。私は私の身心の全部をあげて愛人に捧げた。私はどうなってもいい。ただ彼女のためになるような生活がしたいと思う。私はすべてのものを世に失うとも彼女さえ私のものであるならば、なお幸福を感ずることができるのである。私はけっして彼女に背かない。偽らない。彼女のためには喜んで死ぬことができる。私は彼女のために食を求め、衣を求め、敵を防ぎ、あの雌を率いるけだもののごとくに山を越え、谷を渉《わた》り、淋しき森影にともに棲《す》みたい。
私はほとんど自己の転換を意識した。私は恋人のなかに移植されたる私を見いだした。私は恋人のために一度自己を失い、ふたたび恋人のなかにおいて再生した。
私は彼女において私自身の鏡を得た。私の努力と憧憬と苦悩と功業とはみな彼女を透し
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