ォた。それは私の生命の憧憬の対象があたえられないからだと思った。その憧憬の対象すらも判然とは定まっていなかったけれど、それは人格物でなければならないことだけは解った。私は他の人格を求めてるのだ。他の生命を慕うていたのだ。私は自己のみで生きるに堪えないのだ。他の生命との抱擁よりなる第三絶対者に私の生活の最後の基礎を置こうとしてるのだ。この内部生活の転換こそ心の不安であり、動揺であり、生命を求むるあこがれこそ心の寂寞に相違ないと思った。
かれこれするうちに夏休暇が来て私は故郷に帰った。私の生命を慕い求むる憧憬はますますその度を深くした。そして日に日に切迫してきた。それは宗教的の熱度と飢渇とを示した。乾いた山の町に暑くるしき生を持てあましながら、私は立っても、坐っても、寝ても心が落ちつかなかった。
私は何も読まず、何も書かず、ただ家の中にごろごろしたり、堪えかねては山を徘徊したりした。私の生命は呼吸をひそめて何ものかを凝視していた。
この頃から私の生き方はだいぶ前とは違ってきだした。私の内部の切実なる動乱は私をただインテレクチュアルな生き方のままに許さなかった。私は内部の動揺に、情意の要求に促され圧されて、思索するようになった。概念的に作りあげたる系統からどれほど力ある生活が得られよう。充実せる生活はその価値が内より直観できるものでなければならないと思い始めた。
このとき私の頭のなかには友と神と女とがこんがらがって回転していた。私は真面目に神のことを思った。乾いた草の上に衰弱した体躯《たいく》を投げ出して、青いあかるい空を仰ぎ見ながら一生懸命神のことを思った。けれども私にはどうしても神の愛というものを生き生きと感ずることができなかった。内在的な人格的な神の存在は西田氏のいうがごとき意味において私は信ぜざるを得なかった。けれどもそれは実在の原始の状態に付したる別名にすぎない。それはただ一つの現実であり、光景であり、ザインである。その独立自全なる存在においては愛なるものの存するはずはない。われらは愛によりて神に達することはできる。けれどもいかにして神の愛というものが生じ得るのであろうか。私には神の存在よりも神の愛というものが理解できなかった。『善の研究』を読んでもここがどうしても解らなかった。私は神なるものに働きかけることも働きかけらるることもできはしない。愛されてる
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