もあって逃げ切ってしまうことも出来なかった。向かいの家の軒下へ人目立たぬように身をひそめ、冠った手拭いの結びを締め、ビューッと吹き来る師走の風に煽られて掛かる粉雪を、袖で打ち払い打ち払いじっ[#「じっ」に傍点]と門内を隙《す》かして見たが、松の前栽に隠されて玄関さえも見えなかった。
「別にご来客もないかして供待ちらしい人影もない。……お師匠様にはご在宅かそれとも御殿へお上がりか? 久々でお顔を拝したいが破門された身は訪ねもならぬ。……思えば俺もあの頃は毎日お邸へ参上し、親しくご薫陶を受けたものを思わぬことからご機嫌を損じ、宇都宮の旅宿から不意に追われたその時以来、幾年となくお眼にかからぬ。身から出た錆《さび》でこのありさま。思えば恥ずかしいことではある」
述懐めいた心持ちで立ち去り難く佇《たたず》んでいた。
寛政初めのことであったが、日光廟修繕のため幕府の命を承わり狩野融川は北斎を連れて日光さして発足した。途中泊まったのは蔦屋《つたや》という狩野家の従来の定宿であったが、余儀ない亭主の依頼によってほん[#「ほん」に傍点]の席画の心持ちで融川は布へ筆を揮《ふる》った。童子《どうじ》採
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