今東西に比を見ずといわれ、ピカソ辺《あた》りの表現派絵画と脈絡通ずるとまで持て囃《はや》されているが、それは大正の今日のことで、北斎その人の活きていた時代――わけても彼の壮年時代は、ひどく悲惨《みじめ》なものであった。第一が無名。第二が貧乏。第三が無愛想で人に憎まれた。彼の履歴を見ただけでも彼の不遇振りを知ることが出来よう。
「幕府|用達《ようたし》鏡師《かがみし》の子。中島または木村を姓とし初め時太郎|後《のち》鉄蔵と改め、春朗、群馬亭、菱川宗理、錦袋舎等の号あれども葛飾北斎最も現わる。彫刻を修めてついに成らず、ついで狩野融川につき狩野派を学びて奇才を愛せられまさに大いに用いられんとしたれど、不遜をもって破門せらる。これより勝川春章に従い設色をもって賞せられたれども師に対して礼を欠き、春章怒って放逐す。以後全く師を取らず俵屋宗理の流風を慕いかたわら光琳の骨法を尋《たず》ね、さらに雪舟、土佐に遡《さかのぼ》り、明人《みんじん》の画法を極むるに至れり」
云々というのが大体であるが、勝川春章に追われてから真のご難場《なんば》が来たのであった。要するに師匠と離れると共に米櫃《こめびつ》の方
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