るは絵師冥利にござります。あっ[#「あっ」に傍点]とばかりに驚かれるような珍しいものを描きましょう。フフフフ承知でござるよ」
五
その日以来門を閉じ、一切来客を謝絶して北斎は仕事に取りかかった。弟子はもちろん家人といえども画室へ入ることを許さなかった。
彼の意気込みは物凄く、態度は全然|狂人《きちがい》のようであった。……こうして実に二十日間というもの画面の前へ坐り詰めていた。何をいったい描いているであろう? それは誰にも解らなかった。とにかく彼はその絵を描くに臨本《りんぽん》というものを用いなかった。今日のいわゆるモデルなるものを用いようとはしなかった。彼はそれを想像によって――あるいはむしろ追憶によって、描いているように思われた。
こうして彼は二十日目にとうとうその絵を描き上げた。
彼は深い溜息をした。そうしてじっと[#「じっと」に傍点]画面を見た。彼の顔には疲労があった。疲労《つか》れたその顔を歪めながら会心の笑《えみ》を洩らした時には、かえって寂しく悲しげに見えた。
クルクルと絵絹を巻き納めると用意して置いた白木の箱へ、静かに入れて封をした。
どうやら安心したらしい。
翌日阿部家から使者が来た。
「このまま殿様へお上げくだされ」
北斎は云い云い白木の箱を使者の前へ差し出した。
「かしこまりました」
と一礼して、使者はすぐに引き返して行った。
ここで物語は阿部家へ移る。
阿部家の夜は更けていた。
豊後守は居間にいた。たった今柳営のお勤め先から自宅へ帰ったところであってまだ装束を脱ぎもしない。
「北斎の絵が描けて参ったと? それは大変速かったの」
豊後守は満足そうに、こう云いながら手を延ばし、使者に立った侍臣金弥から、白木の箱を受け取った。
「どれ早速一見しようか。それにしても剛情をもって世に響いた北斎が、よくこう手早く描いてくれたものじゃ。使者の口上がよかったからであろうよ。ハハハハハ」
とご機嫌がよい。
まず箱の紐を解いた。つづいて封じ目を指で切った。それからポンと葢《ふた》をあけた。絵絹が巻かれてはいっている。
「金弥、燈火《あかり》を掻き立てい。……さて何を描いてくれたかな」
呟きながら絵絹を取り出し膝の前へそっと置いた。
「金弥、抑えい」
と命じて置いて、スルスルと絵絹を延べて来たが、延べ終えてじっ
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