ッタリと雪へ膝を突き、グイと開けた駕籠の扉。プンと鼻を刺すは血の匂いだ。
「お師匠様。……」
と忍び音に、ズッと駕籠内へ顔を入れる。
融川は俯向き首垂《うなだ》れていた。膝からかけて駕籠一面飛び散った血で紅斑々《こうはんはん》、呼息《いき》を刻む肩の揺れ、腹はたった[#「たった」に傍点]今切ったと見える。
「無念」
と融川は首を上げた。下唇に鮮やかに五枚の歯形が着いている。喰いしばった歯の跡である。……額にかかる鬢の乱れ。顔は藍《あい》より蒼白である。
「そ、そち誰だ? そち誰だ?」
「は、中島めにござります。は、鉄蔵めにござります……」
「無念であったぞ! ……おのれ豊後!」
「お気を確かに! お気を確かに!」
「……一身の面目、家門の誉れ、腹切って取り止めたわ! ……いずれの世、いかなる代にも、認められぬは名匠の苦心じゃ!」
「ごもっともにござります。ごもっともにござります!」
「ここはどこじゃ? ここはどこじゃ?」
「お屋敷近くの往来中……薬召しましょう。お手当てなさりませ」
「無念!」
と融川はまた呻いた。
「駕籠やれ!」
と云いながらガックリとなる。
はっ[#「はっ」に傍点]と気が付いた北斎は駕籠の戸を立てて飛び上がった。それから静かにこう云った。
「狩野法眼様ご病気でござる。駕籠ゆるゆるとおやりなされ」
変死とあっては後がむつかしい。病気の態《てい》にしたのである。
ちらほら[#「ちらほら」に傍点]と立つ人影を、先に立って追いながら、北斎は悠々と歩いて行く。
この時ばかりは彼の姿もみすぼらしい[#「みすぼらしい」に傍点]ものには見えなかった。
その夜とうとう融川は死んだ。
この報知《しらせ》を耳にした時、豊後守の驚愕は他《よそ》の見る眼も気の毒なほどで、怏々《おうおう》として楽しまず自然|勤務《つとめ》も怠《おこた》りがちとなった。
これに反して北斎は一時に精神《こころ》が緊張《ひきし》まった。
「やはり師匠は偉かった。威武にも屈せず権力にも恐れず、堂々と所信を披瀝したあげく、身を殺して顧《かえりみ》なかったのは大丈夫でなければ出来ない所業《しわざ》だ。……これに比べては貧乏などは物の数にも入りはしない。荻生徂徠《おぎゅうそらい》は炒豆《いりまめ》を齧って古人を談じたというではないか。豆腐の殻を食ったところで活きようと思えば活き
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