柿《さいし》の図柄である。雄渾の筆法閑素の構図。意外に上出来なところから融川は得意で北斎にいった。
「中島、お前どう思うな?」
「はい」と云ったが北斎はちと腑に落ちぬ顔色であった。「竿が長過ぎはしますまいか」
「何?」と融川は驚いて訊く。
「童子は爪立っておりませぬ。爪立ち採るよう致しました方が活動致そうかと存ぜられます」憚《はばか》らず所信を述べたものである。
 矜持《きんじ》そのもののような融川が弟子に鼻柱を挫かれて嚇怒《かくど》しない筈がない。
 彼は焦《いら》ってこう怒鳴った。
「爪立ちするは大人の智恵じゃわい! 何んの童子が爪立とうぞ! 痴者《たわけもの》めが! 愚か者めが!」

        三

 しかし北斎にはその言葉が頷き難く思われた。「爪立ち採るというようなことは童子といえども知っている筈だ」――こう思われてならなかった。でいつまでも黙っていた。この執念《しゅうね》い沈黙が融川の心を破裂させ、破門の宣告を下させたのである。
「それもこれも昔のことだ」こう呟いて北斎は尚もじっと[#「じっと」に傍点]佇んでいたが、寒さは寒し人は怪しむ、意を決して歩き出した。
 ものの三町と歩かぬうちに行く手から見覚えある駕籠が来た。
「あああれは狩野家の乗り物。今御殿からお帰りと見える。……どれ片寄って蔭ながら、様子をお伺がいすることにしよう」
 ――北斎は商家の板塀の蔭へ急いで体を隠したがそこから往来を眺めやった。
 今日が今年の初雪で、小降りではあるが止む時なくさっきから隙《ひま》なく降り続いたためか、往来《みち》は仄《ほの》かに白み渡り、人足絶えて寂しかったが、その地上の雪を踏んでシトシトと駕籠がやって来た。
 今北斎の前を通る。
 と、タラタラと駕籠の底から、雪に滴《したた》るものがある。……北斎の見ている眼の前で雪は紅《くれない》と一変した。
「あっ」
 と叫んだ声より早く北斎は駕籠先へ飛んで行ったが、
「これ、駕籠止めい駕籠止めい!」
 グイと棒鼻を突き返した。
「狼藉者!」
 と駕籠|側《わき》にいた、二人の武士、狩野家の弟子は、刀の柄へ手を掛けて、颯《さっ》と前へ躍り出した。
「何を痴《たわけ》! 迂濶者めが! お師匠の一大事心付かぬか! おろせおろせ! えい戸を開けい」
 北斎の声の凄じさ。気勢に打たれて駕籠はおりる。冠った手拭いかなぐり捨て、ベ
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