むちゅうになった。

 甚三甚内の兄弟の上へ、おさらば[#「おさらば」に傍点]の日がやって来たのは、それから間もなくの事であった。その朝は靄《もや》が深かった。甚三の馬へ甚内が乗り、それを甚三が追いながら、追分の宿を旅立った。宿の人々はまだ覚めず家々の雨戸も鎖《と》ざされていた。宿の外れに立っているのは、有名な桝形《ますがた》の茶屋であったがそこの雨戸も鎖ざされていた。そこを右すれば中仙道、また左すれば北国街道で、石標《いしぶみ》の立った分岐点を、二人の兄弟は右に取り、中仙道を歩《あゆ》ませた。宿を出ると峠道で、朝陽出ぬ間の露の玉が木にも草にも置かれていた。夜明け前の暁風に、はためく物は芒《すすき》の穂で、行くなと招いているようであった。
「せめて関所の茶屋までも」と、甚三の好きな追分節の、その関所の前まで来ると、二人は無言で佇《たたず》んだ。「あにき、お願いだ、唄ってくれ」「おいら[#「おいら」に傍点]は今日は悲しくて、どうにも声が出そうもねえ」「そういわずと唄ってくれ、今日別れていつ会うやら、いつまた歌が聞けるやら、こいつを思うと寂しくてならぬ。別れの歌だ唄ってくれ」
「うん」とい
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