味も、商人の平凡な答えによって、忽ち冷めてしまったらしい。無感激の眼つきをして、ぼんやり天井を眺め出した。
「いえそればかりではございません」商人は一膝進めたが、「家内中評判でございます。いえもうこれは本当の事で」「何、評判? 何が評判だ?」「はいその旦那様のお鼓が」「盲目千人に何が判《わか》る」「そうおっしゃられればそれまでですが、一度お鼓が鳴り出しますと、三味線、太鼓、四つ竹までが、一時に音色をとめてしまって、それこそ家中|呼吸《いき》を殺し、聞き惚れるのでございますよ」
「有難迷惑という奴さな。信州あたりの山猿に、江戸の鼓が何んでわかる」かえって銀之丞は不機嫌であった。
「町人町人、千三屋、その男にはさわらぬがよい」
 見かねて造酒が取りなした。「その男は病人だ。狂犬病という奴でな、むやみに誰にでもくってかかる。アッハハハハ、困った病気だ。それよりどうだ碁でも囲《かこ》もうか」「これは結構でございますな。ひとつお相手致しましょう」
 そこで二人は碁を初めた。平手造酒も弱かったが商人も負けずに弱かった。下手《へた》同志の弱碁《よわご》と来ては、興味津々たるものである。二人はすっかり
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