うと甚三は、声張り上げて唄い出した。草茫々たる碓井峠《うすいとうげ》、彼方《あなた》に関所が立っていた。眼の下を見れば山脈《やまなみ》で、故郷の追分も見え解《わか》ぬ。朝陽は高く空に昇り、きょうも一日晴天だと、空にも地にも鳥が啼き、草蒸《くさいき》れの高い日であったが、甚三の唄う追分は、いつもほどには精彩がなく、咽《むせ》ぶがような顫《ふる》え声が、低く低く草を這い、風に攫《さら》われて消えて行った。

 弟と別れた甚三が、空馬を曳いて帰りかけた時、
「馬子!」とうしろから呼ぶ者があった。振り返って見ると旅の武士が、編笠を傾けて立っていた。けんかたばみ[#「けんかたばみ」に傍点]の紋服に、浮き織りの野袴を裾短かに穿き、金銀ちりばめた大小を、そりだか[#「そりだか」に傍点]に差した人品は、旗本衆の遊山旅《ゆさんたび》か、千石以上の若殿の、気随の微行とも想われたが、それにしてはお供がない。

    病的に美しい旅の武士

 編笠をもれた頤《あご》の色が、透明《すきとお》るようにあお白く、時々見える唇の色が、べにを注《さ》したように紅いのが気味悪いまでに美しく、野苺に捲きついた青大将だと、
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