、当時の全盛が思いやられよう。
 同勢三千、人足五千、加賀の前田家は八千の人数で、ここを堂々と通って行った。年々通行の大名のうち、主なるものを挙げて見ると尾州大納言、紀州中納言、越前、薩摩、伊達、細川、黒田、毛利、鍋島家、池田、浅野、井伊、藤堂、阿波の蜂須賀、山内家、有馬、稲葉、立花家、中川、奥平、柳沢、大聖寺の前田等が最たるもので、お金御用の飛脚も行き、お茶壺、例幣使《れいへいし》も通るとあっては、金の落ちるのは当然であろう。
 さて、この時分この宿場に、甚三という馬子がいた。きだて[#「きだて」に傍点]はやさしく正直者で、世間の評判もよかったが、特にこの男を名高くしたのは、美音で唄う追分節が、何ともいえずうまかったことで、甚三の唄う追分節には、草木も靡《なび》くといわれていた。

 ある日甚三は裏庭へ出て、黙然《もくねん》と何かに聞き惚れていた。夕月が上《のぼ》って野良《のら》を照らし、水のような清光が庭にさし入り、厩舎《うまごや》の影を地に敷いていた。フーフーいうのは馬の呼吸《いき》で、コトンコトンと音のするのは、馬が破目板を蹴るのでもあろう。パサパサと蠅を払うらしい、かすかな尻
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