尾の音もした。甚三は縁へ腰を掛け、じっと物の音に聞き惚れていた。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、美妙な鼓の正調が、あざやかに抜けて来るからであった。
「ああ本当にいい音《ね》だなあ。……本陣油屋の逗留客だというが、何んとマア上手に調べるんだろう。鼓も上等に違えねえ。……『追分一丁二丁三丁四丁五丁目、中の三丁目がままならぬ』とおいら[#「おいら」に傍点]の好きな追分節の、その三丁目の油屋から、ここまで抜けて聞こえるとは、人間|業《わざ》では出来ねえ事だ。追分一杯鳴り渡り、軽井沢まで届きそうだ。それに比べりゃあ俺《おい》らの唄う、追分節なんか子供騙しにもならねえ。ああ本当にいい音だなあ」つぶやきつぶやき聞き惚れていた。
この時背戸のむしろを掲げ、庭へはいって来た若者があった。「兄貴!」と突然《だしぬけ》に声をかけた。甚三の弟の甚内であった。「何をぼんやり考えているな」「おお甚内か、あれを聞きな。何んと素晴らしい音色じゃねえか」
「ああ鼓か。いい音だなあ」兄と並んで腰を掛け、甚内もしばらく耳を傾《かし》げた。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、なおも鼓は鳴っていた。と、鼓は静かに止んだ。恐らく
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