お方をお呼びして」
「勝手なものだ。金持ちは」ギラリと浪人は眼を光らせた。「お北!」と相手の眼を見ながら、
「昔のお前に返る気はないかな?」
 女房は凝然と動こうともしない。
「たかが相手はオイボレだ。……お前にぞっこん参っているらしい。……女中が去った、手伝いに来い。……などとお前をよぶではないか……急場のしのぎだ。格好な口だ」

    亡魂のうたう追分節

「妾はイヤでございます」
「今の俺達は食うにも困る。それはお前も知っている筈だ。……なにもむずかしいことはない。ただ、笑って見せてやれ」
「昔の妾でございましたら……」
「俺から頼む、笑って見せてやれ」
「妾には出来そうもございません」
「そこを俺が頼むのだ」
「…………」
「ではいよいよ不承知か! そういうお前は薄情者か!」
 ポキリポキリと枯れ枝を折り、それを炉の火へくべ[#「くべ」に傍点]ながら、美男の浪人はいいつづけた。
「落ち目になれば憐れなものだ。女房にさえも馬鹿にされる。その女房とはその昔、殺すといえば殺されましょうと、こういい合ったほどの仲だったのに。が、それも今は愚痴か」
 浪人はムッツリと腕をくんだ。
「俺はお前と別れようと思う」浪人は憎々《にくにく》しくやがていった。「くらしが変れば心持ちも変る。……俺は成りたいのだ、明るい人間にな」
 女は肩をすくませた。
「それがあなたに出来ましたら……」
「別れられないとでも思うのか」
「あなたも妾も二人ながら、のろわれている身ではございませんか。二人一所におってさえ、毎日毎夜恐ろしいのに。……それがあなたに出来ましたら」
 夜がふけるにしたがって、隣家の騒ぎもしずまった。笑い声もきこえない。
 ボーンと鐘が鳴り出した。諸行無常の後夜《ごや》の鐘だ。
「酒はないか?」と浪人はいった。
「なんの酒などございましょう」
 きまずい沈黙が長くつづいた。耳を澄ませば按摩の笛。それに続いて夜鍋うどんの声……。
「こんな晩には寝た方がよい。ああせめてよい夢でも。……」
 枕にはついたが眠れない。
 犬の遠吠え、夜烏の啼《な》く音《ね》、ギーギーと櫓を漕ぐ音。……隅田川を上るのでもあろう。
 寂しいなアと思ったとたん、
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西は追分東は関所……
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 追分の唄が聞こえて来た。
「あッ」
 というと二人ながら、ガバと夜具の上へ起き上がった。
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関所越えれば旅の空
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「あなた!」と女房は取り縋った。
「うむ」といったが、耳を澄ました。
「あの唄声でございます!」
「いやいやあれは……人間の声だ!」
「甚三の声でございます!」
「そっくりそのまま……いや異う!」
「亡魂の声でございます!」
「待て待て! しかし似ているなア」
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碓井《うすい》峠の権現さまよ……
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 だんだんこっちへ近寄って来た。
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わしがためには守り神
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 もう門口へ来たらしい。
 浪人は刀をツト握った。そっと立つと夜具を離れ、足を刻むと戸口へ寄った。
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追分、油屋、掛け行燈に
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 聞き澄まして置いて浪人は、そろそろと雨戸へ手をかけた。
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浮気ごめんと書いちゃない
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「うん」というとひっ外した。抜き打ちの一文字、横へ払った気合いと共に、跣足《はだし》[#「跣足」は底本では「洗足」]で飛び下りた雪の中、ヒヤリと寒さは感じたが、眼に遮る物影もない。

    忽然響き渡る鼓の音

 今年の最初の雪だというに、江戸に珍らしく五寸も積もり、藪も耕地も白一色、その雪明りに照らされて、遠方《おちかた》朦朧《もうろう》と見渡されたが、命ある何物をも見られなかった。
 行燈の灯が消えようとした。
 その向こう側に物影があった。
「誰!」
 といいながら隙《す》かして見たが、もちろん誰もいなかった。で、女房は溜息をした。
 鼬《いたち》が鼠を追うのであろう、天井で烈しい音がした。バラバラと煤が落ちて来た。
 すると今度は浪人がいった。
「肩から真っ赤に血を浴びて、坐っているのは何者だ!」
 そうして行燈の向こう側を、及び腰をして透かして見たが、
「ハ、ハ、ハ、何んにもいない」
 空洞《うつろ》のような声であった。
 二人はピッタリ寄り添った。しっかり手と手が握られた。二人に共通する恐怖感! それが二人を親しいものにした。
 冬なかばの夜であった。容易なことでは明けようともしない。丑満《うしみつ》には風さえ止むものであった。鼠も鼬も眠ったらしい。塵の音さえ聞こえそうであった。
 と、その時、ポン、ポン、ポンと、鼓
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