ようかしらん」
 しかし女房は返辞をしない。
 浪人は武鑑をポンと投げた。
「だが仕官は俺には向かぬ」
「それではおよしなさりませ」女房の声には力がない。むしろ冷淡な声であった。
「やっぱり俺は浪人がいい」浪人の声にも元気がない。
 女房は黙って考えていた。
 また雪のしずれる音。……
「その仕立て物はどこのだな?」
「お隣りのでございます」
「隣りというと一閑斎殿か」
 女房は黙って頷《うなず》いた。
 すると浪人は微笑したが、それから物でも探るように、
「あのお家は裕福らしいな?」
「そんなご様子でございます」
「ふん」と浪人は嘲笑った。「昔の俺なら見遁がさぬものを……」
 ――意味のあるらしい言葉であった。気味の悪い言葉であった。
 ここで二人はまた黙った。
 と、浪人は卒然といった。
「俺はすっかり変ってしまった」嘆くような声であった。
「妾《わたし》も変ってしまいました」女房の声は顫えていた。
「俺は自分が解らなくなった。……それというのもあの晩からだ」
 女房は返辞をしなかった。返辞の代りに立ち上がった。
「これ、どこへ行く。どうするのだ」
「灯でもとも[#「とも」に傍点]そうではございませんか」
 やがて行燈がともされた。茫《ぼう》っと立つ黄色い灯影《ほかげ》に、煤びた天井が隈取《くまど》られた。
 と、女房は仏壇へ行った。
 カチカチという切り火の音。……
 ここへも燈明が点《とも》された。
「南無幽霊頓証菩提《なむゆうれいとんしょうぼだい》。南無幽霊頓証菩提」
 ブルッと浪人は身顫いをした。
「陰気な声だな。俺は嫌いだ」
「南無幽霊頓証菩提」
「その声を聞くと身が縮《すく》む」
「どうぞどうぞお許しください。どうぞどうぞお許しください」
「止めてくれ! 止めてくれ!」
「妾はこんなに懺悔しています。どうぞ怨んでくださいますな」
 ザワザワと竹叢《たけむら》の揺れる音。……
 どうやら夜風が出たらしい。

    悪人同志の夫婦仲

「俺の心は弱くなった。それというのもあの晩からだ。……憎い奴は平手造酒だ!」
 なお女房は祈っていた。
 ザワザワと竹叢の揺れる音。……
 次第に夜が更けて行った。
「天下の金は俺の物だ。斬り取り強盗武士の習い。昔の俺はそうだった。……両国橋の橋詰めで、あいつに河へ追い込まれてからは、何彼《なにか》につけて怖じ気がつき、やることなすこと食い違い……」
 なお女房は祈っていた。
 やがてそろそろと立ち上がると、おっと[#「おっと」に傍点]の側へ膝をついた。
 そうして何かを聞き澄まそうとした。しかし何んにも聞こえない。
「ああ」と襟を掻き合わせたが、「まだ今夜は聞こえて来ない。どうぞ聞こえて来ないように」
 チェッと浪人は舌打ちをした。
「毎晩きこえてたまるものか。なんの毎晩きこえるものか」
「毎晩きこえるではございませんか。ゆうべも、おとついも、その前の晩も。……」
「あれは……あれはな……空耳だ」
「なんの空耳でございましょう。あなたにも聞こえたではございませんか」
 二人は顔をそむけ合った。
「……あれはな、亡魂の声ではない。……たしかに人間の声だった」
 しかし女房は首を振った。
「あの人の声でございました。何んの妾《わたし》が聞き違いましょう。……」
 近くに古沼でもあるとみえて、ギャーッと五位鷺《ごいさぎ》の啼く声がした。
 と、それと合奏するように、シャーッ、シャーッという狐の声が、物さびしい夜を物さびしくした。ホイホイホイ、ホイホイホイ、墨堤《つつみ》を走る駕籠であった。
 二人はもはや物をいわない。
 物をいうことさえ恐れているのだ。
 行き詰まった二人の心持ち! しかも生活までも行き詰まっていた。
 二人はいつまでも黙っていた。黙っていても不安であった。物をいっても不安であった。いったいどうしたらいいのだろう?
 と、浪人はうめくようにいった。
「それにしても俺には解らない。……あんなものが! 馬方が! ふん、あんな馬子の唄が、そうまでお前の心持ちを……」
「魅入られているのでございます」
「魅入られていると? いかにもそうだ! ああそれも、昔からだ!」
「あんな男と思いながら……それも死んでいる人間だのに……一度あの唄が聞こえて来ると、急に心が狂わしくなり、体じゅうの血が煮えかえり……生きている空とてはございません」
 女は髪を掻きむしろうとした。
「因果な俺達だ。救いはない」
 憐れむような声であった。
 ふと、笑い声が聞こえて来た。この場に不似合いな笑い声であった。それを耳にすると二人の心は、一瞬の間晴々しくなった。
「なにか取り込みでもあるらしいな」
「ご客来だそうでございます。……能面をおもとめなされたそうで」
「ふん、それを見せるのか」
「お知り合いの
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