名人地獄
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)提灯《ちょうちん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|閑斎《かんさい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)溌※[#「さんずい+刺」、21−8]
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    消えた提灯《ちょうちん》、女の悲鳴

「……雪の夜半《よわ》、雪の夜半……どうも上《かみ》の句が出ないわい」
 寮のあるじはつぶやいた。今、パッチリ好《よ》い石を置いて、ちょっと余裕が出来たのであった。
「まずゆっくりお考えなされ。そこで愚老は雪一見」
 立ち上がったあるじは障子を開けて、縁の方へ出て行った。
「降ったる雪かな、降りも降ったり、ざっと三寸は積もったかな。……今年の最後の雪でもあろうか、これからだんだん暖かくなろうよ」
「しかし随分寒うござるな」
 侍客はこういって、じっと盤面を睨んでいたが、「きちがい雪の寒いことわ」
「……雪の夜半、雪の夜半……」あるじは雪景色を眺めていた。
「よい上の句が出ないと見える」
「よい打ち手がめつからぬと見える」
 二人は哄然《こうぜん》と笑い合った。
「これからだんだん暖かくなろう」あるじはまたも呟《つぶや》いた。
「しかし今日は寒うござるな」侍客がまぜっかえす。
「さよう。しかし余寒でござるよ」
「余寒で一句出来ませんかな」「さようさ、何かでっち上げましょうかな。下萠《したもえ》、雪解《ゆきげ》、春浅し、残る鴨などはよい季題だ」「そろそろうぐいすの啼き合わせ会も、根岸あたりで催されましょう」
「盆石《ぼんせき》、香会《こうかい》、いや忙しいぞ」「しゃくやくの根分けもせずばならず」「喘息《ぜんそく》の手当もせずばならず」「アッハハハ、これはぶち壊しだ。もっともそういえば、しもやけあかぎれの、予防もせずばなりますまいよ」
「いよいよもって下《さ》がりましたな。下がったついでに食い物の詮議だ。ぼらにかれいにあさりなどが、そろそろしゅんにはいりましたな。鳩飯《はとめし》などは最もおつで」「ところが私《わし》は野菜党でな、うどにくわいにうぐいすな[#「うぐいすな」に傍点]ときたら、それこそ何よりの好物でござるよ。さわらびときたら眼がありませんな」「さといも。八ツ頭《がしら》はいかがでござる」「いやはや芋類はいけませんな」「万両、まんさく、水仙花、梅に椿に寒紅梅か、春先の花はようござるな」「そのうち桜が咲き出します」「世間が陽気になりますて」――「そこで泥棒と火事が流行《はや》る」
「その泥棒で思い出した。噂に高い鼠小僧《ねずみこぞう》、つかまりそうもありませんかな?」ふと主人《あるじ》はこんな事をいった。
「つかまりそうもありませんな」
「彼は一個の義賊というので、お上《かみ》の方でもお目零《めこぼ》しをなされ、つかまえないのではありますまいかな?」
「さようなことはありますまい」客の声には自信があった。「とらえられぬは素早いからでござるよ」
「ははあさようでございますかな。いやほかならぬあなたのお言葉だ。それに違いはございますまい」
「わしはな」と客は物うそうに、「五年以前あの賊のために、ひどく煮え湯を呑ませられましてな。……いまだに怨みは忘れられませんて」
「おやおやそんな事がございましたかな。五年前の郡上様《ぐじょうさま》といえば、名与力として謳《うた》われたものだ。その貴郎《ひと》の手に余ったといえば、いよいよもって偉い奴でござるな。……おや、堤《つつみ》を駕籠《かご》が行くそうな。提灯の火が飛んで行く」
「水神《すいじん》あたりのお客でしょうよ。この大雪に駕籠を走らせ、水神あたりへしけ[#「しけ」に傍点]込むとは、若くなければ出来ない道楽だ」
「お互い年を取りましたな。私《わし》はもうこれ五十七だ」
「私《わし》は三つ下の五十四でござる」
「あっ」と突然寮のあるじ一|閑斎《かんさい》は声を上げた。「提灯が! 提灯が! バッサリと!」
 その時|墨堤《ぼくてい》の方角から、女の悲鳴が聞こえて来た。
「ははあ何か出ましたな」
 ――与力の職を長男に譲り、今は隠居の身分ながら、根岸|肥前守《ひぜんのかみ》、岩瀬|加賀守《かがのかみ》、荒尾|但馬守《たじまのかみ》、筒井|和泉守《いずみのかみ》、四代の町奉行に歴仕して、綽名《あだな》を「玻璃窓《はりまど》」と呼ばれたところの、郡上平八は呟いたが、急にニヤリと片笑いをすると、
「やれ助かった」と手を延ばし、パチリと黒石《くろ》を置いたものである。「まずこれで脈はある」
「それはわからぬ」とどなったのは、縁の上の一閑斎で、「刃《やいば》の稲妻、消えた提灯、ヒーッという女の悲鳴
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