戯《いたずら》をするのだろう?」
 考えてみれば気味が悪かった。とはいえ大剛《たいごう》の彼にとっては、恐怖の種とはなりそうもなかった。
 それはとにかく、銀之丞は、駕籠の中に見た女の俤《おもかげ》を、忘れることが出来なかった。
「女は確かに娘らしい。あの『主知らずの別荘」の、家族の一人に相違ない。それも決して女中などではなく、丑松の話したお嬢さんでもあろう」
 女色《じょしょく》に淡い彼ではあったが、不思議と心をそそられた。
 二度目の暗号を渡された日の、その翌晩のことであったが、彼はフラリと宿を出ると、別荘の方へ足を向けた。それは月影の美しい晩で、そぞろあるきには持って来いであった。少しあるくと町の外《はず》れで、すぐに耕地となっていた。その耕地を左右に見て、一本の野良道を先へ進んだ。土橋を渡るともう荒野で、地層は荒々しい岩石であったが、これは海岸に近いからであった。そういえば波の音がした。
 彼はズンズンあるいて行った。間もなく別荘の前へ出た。
 廻れば五町はたっぷりあろうか、そういう広大な地所の中に、別荘は寂然《せきぜん》と立っていた。三間巾の海水堀、高い厚い巌畳《がんじょう》な土塀、土塀の内側《うちがわ》の茂った喬木、昼間見てさえなかの様子は、見る事が出来ないといわれていた。
 夜はかなり更けていた。堀の水は鉛色に煙り、そとへ突き出した木々の枝葉で、土塀のあちこちには蔭影《かげ》がつき、風が吹くたびにそれが揺《ゆ》れた。前と左右は物寂しい荒野で、そうして背後《うしろ》は岩畳《いわだたみ》を隔てて、海に続いているらしい。
 人っ子一人通っていない。市《まち》の燈火《ともしび》は見えていたが、ここからは遙かに隔たっていた。別荘には一点の火光もなく、人のけはいさえしなかった。
 それは別荘というよりも、荒野の中の一つ家《や》であり、わすれ去られた古砦であり、人の住居《すまい》というよりも、死の古館《ふるやかた》といった方が、ふさわしいように思われた。すでに刎ね橋はひき上げられていた。
「何という寂しい構えだろう」
 呟きながら銀之丞は、堀に沿って右手へ廻った。すると意外にも眼の前に、刎ね橋が一筋かかっていた。そこは別荘の側面で、土塀には小門が作られてあったが、それへ通ずる刎ね橋であった。こういう場合おおかたの人は好奇心に捉われるものであった、で、彼も好奇心に駆られ、刎ね橋を向こうへ渡って行った。そうして小門へさわってみた。と、手に連れて音もなく、小門の戸が向こうへ開いた。
「おや」とばかり驚きの声を、思わず口から飛び出させたが、さらに一層の好奇心が、彼の心を駆り立てた。

    魔法使いの魔法の部屋か

 彼は小門をくぐったものである。
 あたりを見ると鬱蒼《うっそう》たる木立で、その木立のはるか彼方《あなた》に、一座の建物が立っていた、どうやら、別荘のおも屋らしい。さすがに彼もこれ以上、はいり込むには躊躇《ちゅうちょ》された。
「しかし」と彼は思案した。「何んというこれは不用心だ。賊でもはいったらどうするつもりだ。一つ注意をしてやろう」で、彼は進んで行った。やがて建物の戸口へ出た。
「ご免」と小声でまず訪《おとな》い、トントンと二つばかり戸を打った。と、何んたることであろう! その戸がまたも内側へ開き、闇の廊下が現われた。
「おや」とばかり驚きの声を、また出さざるを得なかった。しかし驚きはそれだけではなく、
「おはいり」
 というしわがれた声が、廊下の奥から聞こえて来た。
 これには銀之丞も度胆を抜かれた。でぼんやり佇《たたず》んでいた。するとまたもや同じ声がした。
「待っていたよ、はいるがいい」
 度胆を抜かれた銀之丞は、今度は極度の好奇心に、追い立てられざるを得なかった。
 彼は大胆にはいって行った。三十歩あまりもあるいた時、「ここだ!」という声が聞こえて来た。それは廊下の横からであった。見るとそこに開いた扉《と》があった。で、内《なか》へはいって行った。カッと明るい燈火《ともしび》の光が、真っ先に彼の眼を奪った。そのつぎに見えたのは一人の老人で、部屋の奥の方に腰かけていた。
「オイ若いの、戸を締めな」その老人はこういった。
 いわれるままに戸を閉じた。それから老人を観察した。身長《たけ》が非常に高かった。五尺七、八寸はあるらしい。肉付きもよく肥えてもいた。皮膚の色は銅色《あかがねいろ》でそれがいかにも健康らしかった。ただし頭髪《かみのけ》は真っ白で、ちょうど盛りの卯の花のようで、それを髷《まげ》に取り上げていた。銀《しろがね》のように輝くのは、明るい燈火《ともしび》の作用であろう。高い広い理智的な額、眼窩《がんか》が深く落ち込んでいるため、蔭影《かげ》を作っている鋭い眼……それは人間の眼というより、鋼鉄細工とでも
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