もし彼が凡人なら、そういう自家の境遇を、悲観せざるを得なかったろう。しかるに彼は悲観もせず、また絶望もしなかった。それは彼が天才の上に、一個文字通りの近代人だからで、真の芸術には門閥はないと、固く信じているからであった。
とはいえ彼とて人間であり、殊には烈々たる情熱においては、人一倍強い芸術家のことで、父母のことや友人のことは、忘れる暇とてはないのであった。わけても親友の平手造酒の、その後の消息に関しては、絶えず心を配っていた。
それに彼は生まれながら、都会人の素質を持っていて、江戸の華やかな色彩に対しては、あこがれの心を禁じ得なかった。
ところが今日はからずも、江戸めいた美しい女の顔を、駕籠の中に見たばかりか、その女から笑い掛けられたのであった。
彼の心が動揺し、それが態度に現われたのは、やむを得ないことであろう。
紙つぶてに書かれた「あ」の一字
「どう遊ばして、銀之丞様」
お品が不足そうに声をかけた。「考え込んでおりますのね」
「や、そんなように見えますかな」
「お菓子を半分食べかけたまま、手に持っておいでではありませんか」
「これはこれは、どうしたことだ」
「どうしたことでございますやら」
「おおわかった、これはこうだ」テレ隠しにわざと笑い、「あんまりお品さんが可愛いので、それで見とれていた次第さ」
「お気の毒様でございますこと」
「ナニ気の毒? なぜでござるな?」
「なぜと申してもあなた様のお目は、わたしの顔などご覧なされず、さっきからお庭の石燈籠ばかり、ご覧になっているではございませんか」
「いや、それには訳がある」
「なんの訳などございますものか」
「なかなかもってそうでない。すべて燈籠の据え方には、造庭上の故実があって、それがなかなかむずかしい」
「おやおや話がそれますこと」
「冷《ひや》かしてはいけないまずお聞き、ところでそこにある石燈籠、ちとその据え方が違っている」
「オヤさようでございますか」いつかお品はひき込まれてしまった。
「茶の湯、活花、造庭術、風雅の道というものは、皆これ仏教から来ているのだ」
「まあ、さようでございますか」
「ところが中頃その中へ、武術の道が加わって、大分作法がむずかしくなった」
「まあ、さようでございますか」お品は益※[#二の字点、1−2−22]熱心になった。
「で、そこにある石燈籠だが、これはこの室《へや》と枝折戸《しおりど》との、真ん中に置くのが本格なのだ」
「どういう訳でございましょう?」
「門の外から室の様子を、見られまいための防禦物《ぼうぎょぶつ》だからで、横へ逸《そ》れては目的に合わぬ。ところがこれは逸れている。室の様子がまる見えだ」
「そういえばまる見えでございますね」
お品はすっかり感心して、銀之丞の話に耳傾けた。
それが銀之丞には面白かった。もちろん彼の説などは、拠《よ》りどころのない駄法螺《だぼら》なので、それをいかにももっともらしく、真顔《まがお》を作って話すというのは、どうやらお品に弱点を握られ、今にもそこへさわられそうなのが、気恥ずかしく思われたからであった。つまりいい加減の出鱈目《でたらめ》をいって、話を逸《そ》らそうとするのであった。
「だから」と銀之丞はいよいよ真面目《まじめ》に、「もしもここに敵があって、この部屋の主人を討とうとして、あの枝折戸の向こうから、鉄砲か矢を放したとしたら、ここの主人はひとたまりもなく、討たれてしまうに相違ない。すなわち防禦物の石燈籠が、横へ逸れているからだ」
「ほんにさようでございますね」
「しかるによって……」
といよいよ図に乗り、喋舌《しゃべ》り続けようとした銀之丞は、にわかにこの時「あッ」と叫び、グイと右手を宙へ上げた。間髪を入れずとんで来たのは、紙を巻いたいしつぶて! さすがは武道にも勝れた彼、危いところで受けとめた。
「あれ」
と驚くお品を制し、銀之丞は紙をクルクルと解いた。
と、紙面にはただ一字「あ」という文字が記されてあった。
刎《は》ね橋と開けられた小門
その翌日のことであったが、銀之丞が一人野をあるいていると、どこからともなくいしつぶてが、例のように飛んで来た。受け取って見ると紙が巻いてあった。そうして紙にはただ一字「い」という文字が書いてあった。
最初のつぶてには「あ」と書いてあり、次のつぶてには「い」と書いてあった。二つ合わせると「あい」であった。「ハテ『あい』とはなんだろう?」思案せざるを得なかった。「これを漢字に当て嵌《は》めると『鮎《あい》』ともなれば『哀《あい》』ともなる。『間《あい》』ともなれば『挨《あい》』ともなる。そうかと思うと『靉《あい》』ともなる。いずれ何かの暗号ではあろうが、さて何んの暗号だろう? そうしていったい何者が、こんな悪
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